の上へ起き上がった。
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関所越えれば旅の空
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「あなた!」と女房は取り縋った。
「うむ」といったが、耳を澄ました。
「あの唄声でございます!」
「いやいやあれは……人間の声だ!」
「甚三の声でございます!」
「そっくりそのまま……いや異う!」
「亡魂の声でございます!」
「待て待て! しかし似ているなア」
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碓井《うすい》峠の権現さまよ……
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 だんだんこっちへ近寄って来た。
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わしがためには守り神
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 もう門口へ来たらしい。
 浪人は刀をツト握った。そっと立つと夜具を離れ、足を刻むと戸口へ寄った。
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追分、油屋、掛け行燈に
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 聞き澄まして置いて浪人は、そろそろと雨戸へ手をかけた。
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浮気ごめんと書いちゃない
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「うん」というとひっ外した。抜き打ちの一文字、横へ払った気合いと共に、跣足《はだし》[#「跣足」は底本では「洗足」]で飛び下りた雪の中、ヒヤリと寒さは感じたが、眼に遮る物影もない。

    忽然響き渡る鼓の音

 今年の最初の雪だというに、江戸に珍らしく五寸も積もり、藪も耕地も白一色、その雪明りに照らされて、遠方《おちかた》朦朧《もうろう》と見渡されたが、命ある何物をも見られなかった。
 行燈の灯が消えようとした。
 その向こう側に物影があった。
「誰!」
 といいながら隙《す》かして見たが、もちろん誰もいなかった。で、女房は溜息をした。
 鼬《いたち》が鼠を追うのであろう、天井で烈しい音がした。バラバラと煤が落ちて来た。
 すると今度は浪人がいった。
「肩から真っ赤に血を浴びて、坐っているのは何者だ!」
 そうして行燈の向こう側を、及び腰をして透かして見たが、
「ハ、ハ、ハ、何んにもいない」
 空洞《うつろ》のような声であった。
 二人はピッタリ寄り添った。しっかり手と手が握られた。二人に共通する恐怖感! それが二人を親しいものにした。
 冬なかばの夜であった。容易なことでは明けようともしない。丑満《うしみつ》には風さえ止むものであった。鼠も鼬も眠ったらしい。塵の音さえ聞こえそうであった。
 と、その時、ポン、ポン、ポンと、鼓
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