やることなすこと食い違い……」
 なお女房は祈っていた。
 やがてそろそろと立ち上がると、おっと[#「おっと」に傍点]の側へ膝をついた。
 そうして何かを聞き澄まそうとした。しかし何んにも聞こえない。
「ああ」と襟を掻き合わせたが、「まだ今夜は聞こえて来ない。どうぞ聞こえて来ないように」
 チェッと浪人は舌打ちをした。
「毎晩きこえてたまるものか。なんの毎晩きこえるものか」
「毎晩きこえるではございませんか。ゆうべも、おとついも、その前の晩も。……」
「あれは……あれはな……空耳だ」
「なんの空耳でございましょう。あなたにも聞こえたではございませんか」
 二人は顔をそむけ合った。
「……あれはな、亡魂の声ではない。……たしかに人間の声だった」
 しかし女房は首を振った。
「あの人の声でございました。何んの妾《わたし》が聞き違いましょう。……」
 近くに古沼でもあるとみえて、ギャーッと五位鷺《ごいさぎ》の啼く声がした。
 と、それと合奏するように、シャーッ、シャーッという狐の声が、物さびしい夜を物さびしくした。ホイホイホイ、ホイホイホイ、墨堤《つつみ》を走る駕籠であった。
 二人はもはや物をいわない。
 物をいうことさえ恐れているのだ。
 行き詰まった二人の心持ち! しかも生活までも行き詰まっていた。
 二人はいつまでも黙っていた。黙っていても不安であった。物をいっても不安であった。いったいどうしたらいいのだろう?
 と、浪人はうめくようにいった。
「それにしても俺には解らない。……あんなものが! 馬方が! ふん、あんな馬子の唄が、そうまでお前の心持ちを……」
「魅入られているのでございます」
「魅入られていると? いかにもそうだ! ああそれも、昔からだ!」
「あんな男と思いながら……それも死んでいる人間だのに……一度あの唄が聞こえて来ると、急に心が狂わしくなり、体じゅうの血が煮えかえり……生きている空とてはございません」
 女は髪を掻きむしろうとした。
「因果な俺達だ。救いはない」
 憐れむような声であった。
 ふと、笑い声が聞こえて来た。この場に不似合いな笑い声であった。それを耳にすると二人の心は、一瞬の間晴々しくなった。
「なにか取り込みでもあるらしいな」
「ご客来だそうでございます。……能面をおもとめなされたそうで」
「ふん、それを見せるのか」
「お知り合いの
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