どうして俺と鼓賊とが、あの晩湯島と池ノ端とで、追いつ追われつしたことを、この役者達は知っているのだろう? これではまるでこの俺を、からかっているとしか思われない」
奥歯を噛みしめ、こぶしを握り、平八はブルブル身ぶるいをした。
と、その時、鼓の音が、一きわ高く打ち込まれた。
さすがの玻璃窓行きづまる
聞き覚えある鼓であった。忘れられようとしても忘れない、例の鼓の音であった。
ポンポンポン! ポンポンポン!
あたかも彼を嘲笑うように、舞台一杯に鳴り渡った。
「これはいけない」と平八は、思わず耳を手で抑えた。「こんな筈はない。こんな筈はない。こんなところで、あの鼓が、こんなにおおっぴらに鳴る筈がない! どうかしている、俺の耳は!」
いやいや決して彼の耳が、どうかしているのではないのであった。間違いもなくあの鼓が、元気よく鳴り渡っているのであった。
もう見ているに耐えられなかった。で、平八は小屋を出た。これは実際彼にとっては、予期以上の痛事《いたごと》であった。
打ち拉《ひし》がれた平八は、両国橋の方へ辿って行った。雪催《ゆきもよ》いの寒い風が、ピューッと河から吹き上がった。「おお寒い」と呟いたとたん、彼の理性が回復された。橋の欄干へ体をもたせ、河面へじっと眼をやりながら、彼は考えをまとめようとした。
「何んでもない事だ、何んでもない事だ」彼は自分へいい聞かせた。「あらゆる浮世の出来事は、成るようにして成ったものだ。不合理のものは一つもない。よし、一つ考えてみよう。……最初に鼓を聞いたのは、今年の春の雪の夜で、そうしてその場に落ちていたのは、鬘下地の切り髪であった。で、切り髪と鼓とは、深い関係がなければならない。さて、ところで、鼓の音を、二度目に俺が聞いたのは、池ノ端の界隈であった。そうしてその時は鼓賊めが、確かに鼓を打っていた筈だ。しかしいよいよとらえてみれば、能役者観世銀之丞であった。ううむ、こいつが判らない」
ここまで考えて来て平八は、行きづまらざるを得なかった。
彼の考えを押し詰めて行けば、能役者観世銀之丞が、鼓賊でなければならなかった。
「いやいや断じてそんなことはない」
ぼやけた声でこういうと、彼はトボトボとあるき出した。彼はスッカリまいってしまった。精も根も尽きてしまった。
その日も暮れて夜となった時、彼は自宅へ帰って来た
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