ので、造酒はピタリと拳を付けた。北辰一刀流直正伝拳隠れの固めであった。
それと見て取った覆面の武士は、にわかに刀を手もとへひいたが、それと同時に左の手が、橋の欄干へピタリとかかった。一呼吸する隙もない、その体が宙へうき、それが橋下へ隠れたかと思うと、ドボーンという水音がした。水を潜ってにげたのであった。
「恐ろしい早業《はやわざ》、まるで鳥だ」造酒は思わず舌を巻いたが、「しかしこれであたりが付いた。ううむ、そうか! きゃつであったか」
玻璃窓の平八と別れると、観世銀之丞は夜道を急ぎ、邸の裏門まで帰って来た。と、門の暗闇から、チョコチョコと走り出た小男があった。
「観世様、お久しぶりで」その小男はいったものである。
「お久しぶりとな? どなたでござるな?」
「へい、私《わっち》でございます」ヌッと顔を突き出した。
「おお、お前は千三屋ではないか」
「正《まさ》に千三屋でございます」
「なるほどこれは久しぶりだな」
「へい、久しぶりでございます」
「して何か用事でもあるのか?」
「ちと、ご相談がございましてな」
「ナニ相談? どんな相談だな?」
「鼓をお譲りくださいまし」千三屋はいったものである。
すると銀之丞は吹き出してしまった。それから皮肉にこういった。
「貴様、実に悪い奴だ。鼓を盗んだのは貴様だろう?」「いえ、拝借しましたので」「永い拝借があるものだな」「長期拝借という奴で」「黙って持って行けば泥棒だ」「だからお返し致しました」
「ははあ、湯島の境内で、おれにぶつかったのは貴様であったか?」「その時お返し致しました」
千三屋はケロリとした。
捨てるによって拾うがよい
「是非欲しいというのなら、譲ってやらないものでもないが、お前のような旅商人に、鼓が何んの必要があるな?」銀之丞は不思議そうに訊いた。
「是非欲しいのでございますよ」千三屋は熱心であった。「命掛けで欲しいので」
「いよいよもっておかしいな。この鼓で何をする気だ?」
「ちょっとそいつは申されませんなあ」当惑をした様子であった。
「いえないものなら聞きたくもない」銀之丞はそっけなく「その代り鼓も譲ることは出来ぬ」潜《くぐ》り戸を開けてはいろうとした。
「おっとおっと観世様、そいつアどうも困りましたなあ」「ではわけを話すがいい」「ようがす。思い切って話しましょう」「おお話すか、では聞いて
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