「それは残念、ご免くだされ」
 いい捨て向こうへ駆け抜けようとしたが、幽かな常夜燈の灯に照らし、銀之丞の持っている鼓を見ると、飛燕のように飛び返って来た。
 銀之丞の手首をひっ掴むと、「曲者|捕《と》った……鼓! 鼓!」
「黙れ!」と銀之丞は一喝した。「鼓がどうした? 拙者の鼓だ!」
「何んの鼓賊め! その手には乗らぬ! 神妙に致せ! 逃《の》がしはせぬぞ!」
「鼓賊とは何んだ! おおたわけ! 拙者は観世銀之丞、柳営おとめ[#「おとめ」に傍点]芸の家門だぞ!」
 これを聞くと老武士は、にわかに後へ下がったが、
「ナニ観世銀之丞とな。誠でござるかな、どれお顔を……あっ、いかにも銀之丞殿だ!」
「掛《か》け値《ね》はござらぬ。銀之丞でござる。……ところで貴殿はどなたでござるな?」

    河中へ飛び込んだその早業《はやわざ》

「拙者は郡上平八でござる」
「おお玻璃窓の平八老か」
「それに致してもその鼓は?」
「家宝少納言の鼓でござる」
「では、ご紛失なされたという?」
「偶然手もとへ戻りましてな」
「ははあ」といったが平八は、深い絶望に墜落《おちい》った。「うむ残念、鼓賊めに、また一杯食わされたそうな」
「ご用がなくばこれで失礼」銀之丞は会釈した。
「ご随意にお引き取りくださいますよう」こういったまま平八は、首を垂れて考え込んだ。

 銀之丞と別れた平手造酒は、両国の方へあるいて行った。
「下総の侠客笹川の繁蔵は、おれと一面の識がある。ひとまずあそこへ落ち着くとしようか」こんな事を考え考え、橋なかばまで歩いて来た。
 と、悲鳴が聞こえて来た。「人殺しい!」と叫んでいた。向こう詰めから聞こえるのであった。造酒は大小を束《そく》に掴むと、韋駄天《いだてん》のように走って行った。
 見ると覆面の侍が、切り斃した町人の懐中から、財布を引き出すところであった。
「わるもの!」と叫ぶと、拳《こぶし》を揮い、造酒はやにわにうってかかった。「おお、さては貴様だな! 辻斬りをして金を奪う、武士にあるまじき卑怯者は!」
 すると覆面の侍は、抜き持っていた血刀を、ズイとばかりに突き出したが、
「貴様も命が惜しくないそうな」……そういう声には鬼気があった。その構えにも鬼気があった。そうして造酒にはその侍に、覚えがあるような気持ちがした。剣技も確かに抜群であった。
 油断はならぬと思った
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