今や彼女は自分が江戸へ出て行って立身出世をした時の事を空想に浮かべているのであった。
 で、多四郎は懲《こ》りずにまた山吹の手をとったがやはり彼女はそのままでいた。
 と、山吹は囈語《うわごと》のようにまたもこんなことを叫んだのであった。
「ああ妾《わたし》厭だ! 山の中は!」
「では参ろうじゃありませんか。花の大江戸の真ん中へね」
 多四郎は山吹の手を引いた。彼女は彼に引かるるままに彼の胸の上に顔を埋ずめた。
「連れて行ってください! 連れて行ってください! 妾どうしたって江戸へ行きます!」

         九

 凄《すさま》じい微笑が一刹那《いっせつな》多四郎の頬に浮かんだが、山吹の顔をジリジリと上の方へ向けようとする。二人の顔が合った時多四郎は突然自分の顔を山吹の顔へ落としかけた。
 とたんに笑い声が聞こえて来た。ハッとして二人が顔を上げると牛丸が門口に立っている。
「ヤーイ、何をベチャクチャしてるのだい! 岩さんに云い付けるぞ!」憎悪《ぞうお》の光を眼に湛《たた》え、「オイ岩さんがやって来るぞ! 妙な人と一緒にな!」
「馬鹿! 悪戯《いたずら》っ児《こ》! 厭な餓鬼《がき
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