して土崩瓦壊《どほうがかい》した。
 十人二十人組を組んで笹の平を去る者が出来た。「黄金の甲冑を取り戻すまでは俺達はここへは帰って来まい」――「黄金の甲冑を探しに行こう。日本の国の隅々《すみずみ》隈々《くまぐま》を、幾年かかろうと関《かま》わない。探して探して探して廻ろう」
 こう云って彼らは出て行くのであった。
 一月二月と経つうちに笹の平の窩人の数はわずか二百人となってしまった。こうして秋が去り冬が来た頃には、笹の平は無人境となった。最後に残った二百人を杉右衛門自ら引卒《ひきつ》れて放浪の旅へ登ったからである。
 天狗の宮には祀《まつ》る者がなく窩人の住家《すみか》には住む者がなく、従来《いままで》賑やかであっただけにこうなった今はかえって寂しく蕭殺《しょうさつ》の気さえ漂うのであった。
 ある日、一匹の野狐が恐らく猟師にでも追われたのであろう、天狗の宮の拝殿へ一目散に駈け込んで来たが、幾日経っても出て行かなかった。そこを住家としたのである。次第に眷属《けんぞく》が集まって来て、荘厳を極めた天狗の宮は、獣の糞や足跡で見る蔭もなく汚されてしまい、窩人達の家々には狸《たぬき》や狢《むじな》が群をなして住み子を産んだり育てたりした。
 こうして再び春となった。
 野生えの梅が花を点じ小鳥が楽しそうに鳴くようになった。
 この時、崖下の小屋の中で逞《たくま》しい赤児《あかご》の泣き声がした。山吹が子供を産み落としたのである。産まれた子供は男であった。で、猪太郎《ししたろう》と名付けられた。産婦の山吹は小屋の中で藁《わら》に埋まって横になっていた。介抱《かいほう》する者は誰もいない。ただ一匹の小さい猿がキョトンとしたような顔をして寝かせてある赤児の枕もとに行儀よくチョコンと坐っているのがせめてもの[#「せめてもの」に傍点]山吹の心やりであった。
 宇宙のあらゆる動物のうち人間と名付くる生物が一番順応性を持っている。
 こんなに苦しい境遇にあっても山吹は不思議に肥立《ひだ》って行った。わずかに残っている米と味噌、大事にかけて貯《たくわ》えておいた去年の秋のいろいろの果実《このみ》、食物《たべもの》と云えばこれだけであったが乳も出れば立って歩くことも出来た。赤児も元気よく育って行った。
 こうして幾月か月が経ちまた幾年か年が経った。
 五年の歳月が飛び去ったのである。
 五年に渡る辛労《しんろう》が山吹の体を蝕《むしば》んだと見えとうとう山吹は病気になった。五歳になった猪太郎が必死となって看病はしたが、定命《じょうみょう》と見えて日一日と彼女の体は衰えて行き死が目前に迫るように見えた。
 ある日彼女は猪太郎を枕もとへ呼び寄せた。そうして彼女は云ったのである。
「……妾《わたし》の云うことをよくお聞き。お前のお父様は城下の人で五味多四郎というのだよ。……妾はその人に欺瞞《だま》されたのだよ。――じきに妾は死ぬだろう。ああこの怨《うら》みこの呪詛《のろい》を返すことも出来ずに死ぬのだよ。妾は死んでも死にきれない! 猪太郎や妾にはお願いがある。お母さんに代って憎い多四郎へ、お前から怨みを返しておくれ! それが何よりの孝行だよ! ……おいでおいで猪太郎や妾の側《そば》へ来るがいいよ。腕をお出し右の腕をね。口の側へ持っておいで。さあお母さんの口の側へね」
 山吹は猪太郎の右の腕へ確《しっか》り喰い付いて歯形を付けた。「その歯形は永久消えまい。お母さんの形見だよ。その歯形を見る度にお母さんの怨みを思い出しておくれ。そうして憎い多四郎へお母さんの怨みを返しておくれ」
 こう云ってしまうと山吹はいかにも安心したようにさも平和《やすらか》に眼をとじた。そうしてそれから二日ばかり活きたが三日目の朝には息絶えていた。
 五歳の猪太郎はその日以来全く孤児《みなしご》の身の上となった。しかし彼は寂しくはなかった。猿や狼や鹿や熊が彼を慰めてくれるからである。
 こうして彼の生活は文字通り野生的のものとなり、食物《くいもの》と云えば小鳥や果実《このみ》、飲料《のみもの》と云えば谷川の水、そうして冬季餌のない時は寂しい村の人家を襲い、鶏や穀物や野菜などを巧みに盗んで来たりした。
 こうしてまたも五年の月日が倏忽《しゅっこつ》として飛び去った。そうして猪太郎は十歳《とお》となったがその体の大きさは十八、九歳の少年よりももっと[#「もっと」に傍点]大きくもあり逞《たくま》しくもあり、その行動の敏活とその腕力の強さとは真に眼覚《めざ》ましいものであった。且つ彼の頭脳《あたま》のよさ! これも正しく驚くべきもので、まことに彼は窩人の血と城下の人間の血とを継ぎ、荒々しい自然界に育てられたところの不思議な生物《いきもの》と云うべきであったが、この猪太郎こそこの物語すなわち「八ヶ嶽
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