る晩のこと、ちょうどあのような赤い灯が湖水を越えて行きましたが、よもや[#「よもや」に傍点]お忘れではござりますまいな? その時あなた様は今夜のようにやはりその窓でそのように湖水を眺めておられました。……お顔の色もお体も今夜のように蒼褪《あおざ》めて顫《ふる》え、そしてお眼からも今夜のように涙が流れておられました。ただ今夜と違っておられます事は尼様達のお祈祷《いのり》の代りに猛《たけ》りに猛る武士《もののふ》のひしめきあらぶ[#「あらぶ」に傍点]声々《こえごえ》が聞こえていたことでござります」
柵《しがらみ》は物にでも襲われたように両手で顔を抑えたが、「何も彼《か》も妾《わたし》は覚えている。あああの晩の恐ろしかったことは……」
「……その夜お城から乗り出した軍装《いくさよそお》いした二隻の船には互いに剣《つるぎ》を抜きそばめ互いに相手を睨み合った若い二人の武士《もののふ》が乗っておられた筈でござりますな。……それこそ他ならぬあのお二方。画像のお方達でござります」
「それも妾は覚えている。一人は橘宗介《たちばなむねすけ》様! おお妾の許婚《いいなずけ》!」
「はい、そうしてそのお方様こそこの城の主《あるじ》でござりました。そうしてもう一人のお方様は宗介様のおん弟夏彦様でござりました」
「夏彦様! 夏彦様!」
三
突然思慕に堪《た》えないようにこう柵《しがらみ》は叫んだが、そのままぐるりと窓の方へ向いた。そうして両手を差し出して遥《はる》か湖水の彼方《かなた》の方にその恋人が立っているのを招くかのように打ち振った。
「不吉の夜でござります」――老いたる従者はまた云った。「何故と申しますに、十四年前の古い思い出が甦《よみがえ》り蝮《まむし》に噛《か》まれた昔の傷がちょうどズキズキ痛むように痛んで参ったからでござります。――ご覧遊ばせ、赤い船の灯が次第次第にこのお城へ近寄って参るではござりませぬか。……次第次第にこのお城から遠ざかって行った十四年前の二隻の軍船とは反対に。……お休みなさりませお姫様。不吉の晩でござりますから」
影のように現われた老人は、影のようにこの部屋から去ろうとしたが、ふと戸口で振り返った。
「思い出したことがござります。と申するは他《ほか》でもござりませぬ。三点鐘《さんてんしょう》のことでござります」老人は回想にふけるように、「十四年前二隻の船が湖水を渡って立ち去りました時、宗介様と夏彦様とがこのようにあなた様とお約束なされ、お誓い遊ばしたではござりませぬか――いつの日いかなる時を問わず闇の夜赤き灯火《ともしび》を点じ湖水を漕《こ》ぎ来る船にしてもし三点鐘を打つ時は……」
「私の許婚《いいなずけ》の帰った証拠!」
「また二点鐘を打つ時は……」
「夏彦様が帰った合図!」
「その通りでござります。今夜のような不吉の晩にはその鐘が不意に湖上から鳴らないものでもござりませぬ。よくよくご用心遊ばしませ」
足音を消して老人は廻廊の方へ出て行った。
後は寂然《しん》と静かである。
と、柵《しがらみ》は身顫《みぶる》いをし物におびえた[#「おびえた」に傍点]というように部屋の中を怖そうに見廻したが、ツト画像の前まで行き、夏彦の画像へ両手を投げ掛け譫言《うわごと》のように叫ぶのであった。
「夏彦様夏彦様、果たし合いにお勝ちくださりませ! そうしてどうぞ一刻も早くお城へお帰りくださりませ! 三点鐘の鳴らぬよう二点鐘の鳴りますように神様お加護くださりませ!」
とたんに湖上から鐘の音が窓を通して聞こえて来た。赤い灯火のついている軍船で鳴らす鐘に相違ない。
ボーンと、一つ鮮明《はっき》りと最初の鐘が鳴らされた。続いて二つ目の鐘の音が殷々《いんいん》として響いて来た。
「二点鐘!」と柵は聞き耳をたてながら呟いた。しかし間もなく三つ目の鐘が鮮かに尾を曳いて鳴り渡った。そしてそのまま絶えたのである。三点鐘が鳴ったのだ。恋しい夏彦は帰らずに、名ばかり許婚の宗介が果たし合いに勝って帰って来たのだ。
柵の顔は蒼白となり眼ばかりギラギラと輝いたが、その眼で夏彦の画像を見詰め物狂わしくこう叫んだ。
「夏彦様夏彦様! あなたは永久にこのお城へはお帰りなさらないのでござりますね。十四年の間、恋と嘆《なげ》きに明かし暮らした妾《わたし》の胸へ二度とお帰りなさらないのだ」
彼女はにわかに冷ややかな眼で宗介の画像に見入ったが、
「あなたがこのお城へ帰ったとて何が待っておりましょうぞ。お祈祷《いのり》をする尼様と、あなたにとっては敵の子と、そして冷たい許婚の屍《むくろ》ばかり……あなたの希望《のぞみ》はこれこのように消えてしまったのでござりますぞ」――云いながら龕《がん》の前へ行き点《とも》された灯火を吹き消した。
それ
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