でございますわ。何故《なぜ》と申しますにそうおっしゃる時いつもお姉様のお眼の中に涙が溜《た》まるではございませぬか。偽りの証拠でございますわ」
 こう云うと久田姫は眼を抑えた。指と指との隙を洩れて涙が一筋流れ出た。彼女は泣いているのである。
 窓を透して射し込んでいた幽《かす》かな夕暮れの光さえ今は全く消えてしまって室内はようやく闇《やみ》となった。その闇の中で聞こえるものは妹の泣き声ばかりである。
 その時静かに襖が開いて尼《あま》が一人はいって来た。黒い法衣に白い被衣《かつぎ》。キリスト様とマリヤ様に仕えるそれは年寄りの尼であった。
「まあこのお部屋の暗いことは。灯火《あかり》を点《つ》けないのでござりますね。……お祈りの時刻が参りました。灯火をお点けなさりませ」

         二

「はい」
 と久田姫は立ち上がった。そろそろと龕《がん》の前まで行きカチカチと切り火の音をさせ火皿へつつましく火を移した。黄金の十字架は燦然《さんぜん》と輝きキリストのお顔もマリヤのお顔も光を受けて笑《え》ましげに見える。
 年寄りの尼を真ん中にして久田姫と柵《しがらみ》とは龕の前にひざまずいた。
 尼は恭《うやうや》しくお祈りを上げる――「悩み嘆く魂のために安らけき時を与え給え。犯せる罪を浄《きよ》めるために浄罪の時を与え給え。――神の怒りは火となりて我らの五体を焼き給うとも我らは永劫《えいごう》に悔いざらん。アーメン」
「アーメン」
「アーメン」
 と二人の姉妹もそれに続いてさも恭しくこう云った。
「お祈りはもう済みました。お休みなさりませ、お休みなさりませ」
 尼は云い捨てて立ち去った。室内は再び静かになった。と、遠くから祈祷《きとう》の声が讃歌《うた》のように響いて来る。尼達が合唱しているのであろう。
 久田姫は立ち上がり何気なく窓へ近寄って行ったが、
「……おお湖は真っ暗だ。どうやら嵐が出たらしい。濤《なみ》の音が高く聞こえる……ああ湖の上に灯が見える。あそこに船がいるのかも知れない。だんだんこっちへ動いて来る。路案内の灯でもあろう。……」
 姉の柵《しがらみ》は龕の前に尚《なお》つつましくひざまずいていた。熱心にお祈りをしているのであった。すすりなきの声がふと洩れる。
「お姉様」
 と云いながら久田姫は窓を離れ姉の後ろへ寄り添った。
「何をお泣きなされます。妾《わたし》がくどく[#「くどく」に傍点]あのような事をお尋ねしたからでございますか? ……もう妾はお父様のことは何んにもお尋ね致しませぬ。どうぞお許しくださいまし」
 隣りの部屋へ歩きながら、
「妾はこれからはただ一人で考えることに致しましょう。お休みなさりませお姉様。夜はまだ早いのではございますが、妾は悲しくなりましたゆえ、いつものように夜の床の上でご本を読むことに致します。お休みなさりませお姉様」
 彼女の立ち去ったその後は遠くから聞こえる祈祷の声ばかりが寂《さび》しい部屋をいよいよ寂しくいよいよ味気なく領《りょう》している。
 ふと[#「ふと」に傍点]柵は顔を上げたがその眼には涙が溢れている。
「可哀そうな久田姫や、お前は何一つこの妾《わたし》に詫びることはないのだよ。妾こそお前に詫びねばならぬ。可哀そうなお前の身の上は妾の淫《みだ》らな穢《けが》れた血で醜《みにく》く彩《いろど》られているのだからねえ」
 彼女はよろよろと立ち上がり画像の前まで行ったかと思うと二幅の画像を交互《かわるがわる》に眺め、
「ほんとに姫が云ったように何んとマアこの二人の人は悲しそうな顔をしているのであろう。云えば恥となり云わねば怨《うら》みとなる。そう云ったような深い秘密をじっと噛みしめているようだ。けれど妾にはその秘密がどのようなものだか解っている。それが解っているために妾の声はお祈祷《いのり》に顫《ふる》え妾の眼は涙に濡れ……そうして妾の生涯は……」
 その時一人の老人が影のように部屋の中へはいって来た。乱れた白髪|穢《よご》れた布衣《ほい》、永い辛苦《しんく》を想わせるような深い皺《しわ》と弱々しい眼、歩き方さえ力がない。
「お姫様《ひいさま》」と老人は声を掛けた。深みのある濁った声である。
「おお、お前は島太夫……何か妾にご用なの?」
「もうお休みでござりますか?」
「お祈祷《いのり》も済んだし懺悔《ざんげ》もしたし今日のお勤行《つとめ》はつとめてしまったからそろそろ妾は寝ようかと思うよ」
「それがよろしゅうござります。不吉の晩はなるだけ早くお休み遊ばすに限ります」
「え、不吉の晩というのは?」
 老人は窓を指さしたが、
「ご覧あそばせ闇の湖に一つ点《とも》された赤い灯を……」
 云われて柵《しがらみ》はスルスルと窓の方へ寄って行った。後から老人もつづきながら、
「十四年前のあ
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