ぁんと一杯《いっぺえ》飲《や》ろうと思ってな、酒を二升ばかりさげて来たよ」
白鳥をドサリと囲炉裡|傍《ばた》へ置く。
「なに酒か済まねえなア」
それから焚火でかん[#「かん」に傍点]をして二人はグイグイやり出した。
しばらく二人とも黙っている。
それが二人には胸苦しいのである。
一六
「岩」
と不意に杉右衛門は云った。
「お前ちっとも酔わねえじゃねえか」
「そういう爺つぁんだって酔ってねえようだな」
「どうしたのか俺はちっとも酔えねえ」
「俺もそうだ、ちっとも酔えねえ」
そこで二人は沈黙した。その沈黙は長かった。そうして息苦しい沈黙である。
戸の隙間から吹き込むと見えて雪が二人の肩へ掛かった。嵐の名残りが迷い込んだものかパッと焚火が横になぐれ[#「なぐれ」に傍点]たが、またすぐスッと立ち直った。
まだ二人は黙っている。
と、突然岩太郎が云った。
「どうも俺には解らねえ! どう考えても解らねえ!」
「何が!」
と杉右衛門が突っ込んで行く。
「何がってお前女の心がよ!」
「女と云わずに山吹と云え!」
「おお云うとも! おお云うとも! 俺にはどうしても解らねえ。あの山吹の心持ちがよ!」
「あいつは悪魔に憑《つ》かれたのだ。その他に何がある!」
「そう云ってしまえばそれまでだが、俺はもっと知りてえのだ、何が山吹を誑《たぶら》かしたか?」
「そんな事を聞いて何んになる」
「なんにもならねえが聞いてみてえのよ」
「ふん、つまらねえ詮索《せんさく》だ」
そこでまた二人は黙り込んだ。二升の酒が尽きかかった。
「そうだ。あいつがよくなかった」
今度は杉右衛門が呻くように云った。「あの時うんと[#「うんと」に傍点]叱って置いたらこんな騒動にはなるめえものを」
「え?」と岩太郎は聞き咎める。「爺つぁん何かあったのかな?」
「あいつがいなくなる少し前よ、珍らしくあの男がやって来た」
「あの男? 多四郎かな?」
「そうだ行商のあいつがな、そうしてそこの縁先で色々の物を拡げたっけ。俺が見てさえ眼が眩《くら》みそうな綺麗《きれい》な帯や駒下駄をな。……するとその時まで座敷の奥で素気《そっけ》ない様子で坐っていたあの山吹めが立ち上がって縁先へ行ったというものさ。――俺はその時何かの用で確か家を出た筈だ。帰って来て見ると山吹めが嬉《うれ》しそうな顔で笑っている。見ると下駄を持っている。多四郎に貰ったということだ。ちょっと小言は云ったものの大して叱りもしなかったが、今から思えば縮尻《しくじり》だった……と、翌《あく》る日《ひ》は帯を貰う。その翌る日は簪《かんざし》を貰う。……」
「もう解った。ふうむ、そうか。……それでやっと胸に落ちた。爺つぁん!」――と岩太郎は声を逸《はず》ませた。
「おいよ」と杉右衛門は眼を見張る。
「俺アいよいよ思い切るよ」
「うん。その方がよさそうだ」
「思い思われた男を捨てて帯や簪へ眼を移すようなそんな女には用はねえ」
「うん。いかにももっともだ。……俺もとうから心の中では親子の縁を切っているのだ」
「白法師様も呆《あき》れるだろうよ。……こんな始末になろうとは夢にも思っていなさるめえからな」
「え、何んだって? 白法師だって?」
「なあにこっちの話だよ」
そこでまたもや黙り込んだ。酒はおつもりになったらしい、二人は何んとなく手持ち無沙汰にじっ[#「じっ」に傍点]と火ばかり見詰めている。
「爺つぁん、それじゃ俺は帰るよ」
岩太郎は立ち上がった。
「そうか。それじゃまた来るがいい」
岩太郎は表の戸を開けて吹雪の中へ出て行った。
杉右衛門は炉側《ろばた》に坐ったまま、いつまで経っても動こうともしない。やがて薪《たきぎ》が尽きたと見えて焚火が漸次《だんだん》消えて来た。
杉右衛門はそれでも身動きさえしない。
間もなく夜がやって来た。嵐の勢いが強まったと見えてヒューッヒューッと鞭《むち》を振るような物凄い唸り声が聞こえて来る。
杉右衛門はにわかに立ち上がり、表の方へよろめき行くとガラリと戸を開けて飛び出した。
轟《ごう》ッと、凄じい風音と共に吹雪が眼口をひっ[#「ひっ」に傍点]叩く。山の姿も林の影も一物も見えない闇の空間を、小鬼のような亡霊のような雪片ばかりが躍っている。
杉右衛門はグルリともんどりを打つと、雪の上へ転がった。ぐるぐるぐるぐるぐるぐるぐるぐる彼はあたかも狂人《きちがい》のように丘と云わず谷と云わず雪の中を転げ廻る。
いかにも窩人《かじん》の長《おさ》らしい、こういう惨酷《ざんこく》の方法をもって、彼は自分の肉体を苦しめ、娘に対する思慕の情と同じ者に対する憎悪《ぞうお》の念とを痲痺《まひ》させようとするのであった。
一七
「ヨイショ」「ドッコイ
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