すねえ、あなたはどういう方なんです?」
 すると白衣の妙な人は穏かな微笑を頬に湛《たた》えながら牛丸の方へ進み寄り軽く頭を撫《さす》った。
「私《わし》かね、私は坊さんだよ。……総《すべ》ての人よ愛し合えよ! こういう宗旨を拡めようとこの部落へ来た坊さんだよ」
「坊さん? ううん、坊さんじゃないよ。だって頭に髪があるじゃないか」
「だから私は有髪《うはつ》の僧じゃ。したがって私の説教は普通の坊さんとは少し違う」
「あなたの名は何んて云うの?」
「私には本来名はないのじゃ。……私は白衣を纏《まと》っている。だから部落の人達は、白法師と呼んでいる」
「えっ」
 と牛丸は驚いたが、驚いたのは牛丸ばかりではなく山吹も岩太郎も仰天して、妙な人をつくづくと見た。
「何も驚くことはない」
 白法師は悠然《ゆうぜん》と説き出した。
「部落の人達が憎み嫌う白法師とは私のことじゃ。しかし私は悪魔ではない。私はかえって天使の筈《はず》じゃ……この部落はよい部落じゃ。ここの人達はよい人達じゃが、一つだけ悪いことがある。窩人《かじん》以外の下界の人達を忌《い》み嫌うということはどう考えてもよいことではない。私はそういう思想《かんがえ》を打ち破るために来た者じゃ」
 白法師の眼はこう云った時|焔《ほのお》のように輝いた。法師はやがて一揖《いちゆう》すると敷居を跨《また》いで戸外《そと》へ出た。林の中へはいって行く。間もなく姿は木に隠れたが、その神々しい白衣姿は、三人の眼に残っていた。そうして「愛の宗教」を説いた慈愛の言葉も三人の耳に、尚|明瞭《はっき》りと残っていた。
 二人の恋人は抱き合ったまま白法師の後を見送っている。

         一二

 こういうことがあってから一月ほどの日が経《た》った。万山を飾って燃えていた紅葉《もみじ》の錦は凋落《ちょうらく》し笹の平は雪に埋《う》ずもれた。冬|籠《ごも》りの季節が来たのである。
 冬という季節は窩人達にとっては狩猟《しゅりょう》と享楽《きょうらく》との季節であった。彼らは弓矢を携《たずさ》えては熊や猪を狩りに行く。捕えて来た獲物を下物《さかな》としては男女打ち雑《まじ》っての酒宴を開く。恋の季節肉欲の季節また平和の季節でもあった。そしてまた怠惰《たいだ》の季節でもあった。
 雪は毎日降りに降る。
 火を焚《た》いて暖を取りみんな集まって無駄話をする。それ以外には用はない。
 彼らの話の題材と云えば「宗介天狗」の事ばかりで、彼らにとって「宗介天狗」は誰よりも尊い守り本尊であった。
 もちろん白法師の噂も出た。
「部落の平和を破る者だ」
 こう云って人々は憎むのであった。――しかし概《がい》して冬の間は彼らの部落は平和であった。

 深山の夜は更けていた。
 空に幽《かす》かに月がある。
 見渡す限り雪に蔽《おお》われ森も林も真っ白である。
 と、一点黒い影が雪の上へ浮かび出た。熊か? いやいや人間らしい。しかもどうやら重い物を背中に背負っているらしい。ノロノロ蠢《うごめ》きながら近寄って来る。
 ここは八ヶ嶽の中腹である。窩人の部落からは真下に当たる「鼓《つづみ》ヶ|洞《ほら》」という谷間である。正面に絶壁が聳《そび》えている。
 その絶壁の下まで来ると黒い人影は立ち止まった。
「おい」
 と、不意に呼びかけた。
「俺だ俺だ早く戸を開けてくれ」――囁《ささや》くような声である。
 誰をいったい呼んでいるのであろう。誰もその辺にはいないではないか。それに戸を開けろと云ったところでどこにも家などないではないか。
 森然《しん》と四辺《あたり》は静かである。
 と、不思議にもどこからともなく答える声が聞こえて来た。
「おい、誰だ? 権九郎か?」
 すると黒い人影は寒そうに声を顫《ふる》わせながら、
「声音《こわね》でおおかた解りそうなものだ。こんな所へこんな夜中に俺の他に誰が来るものか」
「誂《あつら》え物《もの》は持って来たろうな?」
「へ、ご念にゃ及ばねえ。数々の売品《ばいひん》持って参って候《そうろう》だ、寒くていけねえ早く開けてくんな」
「お前一人で来たんだろうな?」
「こいついよいよ関所だわえ。安宅《あたか》の関なら富樫《とがし》だが鼓ヶ洞だから多四郎か。いや睨《にら》みの利《き》かねえ事は。……あいあい某《それがし》一人にて候」
「よし。それじゃ戸を開けるぜ」
 声と一緒にガチンという錠を外す音が聞こえて来たがすぐその後からギーという戸の軋《きし》る音が幽かにして、雪で蔽われた雑木林にボーと一所《ひとところ》火影が射《さ》した。
 木々で隠され雪で蔽われ外見からはほとんど見えないけれど絶壁の裾の灌木《かんぼく》の繁みにどうやら木小屋でも出来ているらしい。火影もそこから来るらしい。
 再び戸の軋る
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