話をそれではお聞かせ致すとしましょう」
妙な人は瞑目《めいもく》し何かじっと[#「じっと」に傍点]考えていたが、
「江戸は悪魔の巣でござるよ!」
一句鋭く喝破《かっぱ》した。
「いえ違います違います!」
と嘲《あざ》けるように叫び出したのは充分多四郎の甘言によって江戸の華美《はなやか》さを植え付けられた彼女山吹に他ならなかった。
「いいえ江戸は美しい人達の華美《はなやか》に遊びくらしている極楽だということでござります!」
「聞け!」と再び鋭い声が妙な人の口から迸《ほとばし》ったが、一座その声に威圧され一度にしん[#「しん」に傍点]と静かになった。
さて、そもそも妙な人は何を語ろうとするのであろう? しかし少なくも妙な人は、虚栄虚飾に憧憬《あこが》れている山の乙女山吹の心をその本来の質朴の心へ返そうとしているのは確からしいが、はたして山吹は彼の言を聞き元の乙女に立ち返るか、それとも多四郎に誘惑されるか? これこそ作者が次において語らんとする眼目である。
一一
岩太郎と山吹とを前に据えて白衣《びゃくえ》長髪の妙な人は江戸の話を話し出した。
「……江戸は将軍家おわす所、それはそれはこの上もなく派手な賑やかな所です。上は大名旗本から下は職人商人まで身分不相応に綺羅《きら》を張り、春は花見秋は観楓《かんぷう》、昼は音曲夜は酒宴……競って遊楽《あそび》に耽《ふけ》っております。山海の珍味、錦繍《きんしゅう》の衣裳、望むがままに買うことも出来、黄金《こがね》の簪《かんざし》※[#「王+毒」の「毋」に代えて「母」、第3水準1−88−16]瑁《たいまい》の櫛《くし》、小判さえ積めば自分の物となる。そうです。実に小判さえ出せば万事万端|己《おの》が自由《まま》――これが江戸の習俗《ならわし》です。したがってそこには『静粛《せいしゅく》』もなければ『謙遜』というような美徳もなく、あるものは『虚偽』と『偽善』ばかりです。……実際そこには小鳥も啼かず緑の美しい林もなく穀物の匂いも流れて来ず、嫉妬《しっと》、猜疑《さいぎ》、朋党異伐、金銭《かね》に対する狂人《きちがい》のような執着、そのために起こる殺人兇行――あるものと云えばこんなものばかりです。しかも、そのくせ表面《うわべ》はと云えば、いかにも美しくいかにも華麗《はなやか》に、質朴で正直な田舎の人を誘惑するように出来ております。……それに反してこの笹の平は何んという結構な所でしょう」
云いながら静かに身を廻《めぐ》らし戸外《そと》の景色を指差したが、
「畑を耕す男、車を押す女。楽しそうに叫んでいる子供や犬。……何んと長閑《のどか》ではありませんか。……真昼の光に照らされて紅葉の林が燃え立っております。雑草に雑《まじ》った野菊の花。風に揺れなびく葛《くず》の花。花から花へ蜜をあさる白い蝶《ちょう》や黄色い蝶、峰から丘、丘から谷、谷から麓《ふもと》へ群を作《な》して渡って行く渡り鳥。……何んと平和ではありませんか。――谷川の音は自然の鼓、松吹く風は天籟《てんらい》の琴、この美妙の天地のなかに胚胎《はぐく》まれた恋の蕾《つぼみ》に虫を附かせてはなりません。――幸福というものは破れ易くまた二度とは来ないものです」
こう云いながら妙な人は二人の方へ手を延ばした。と、山吹も岩太郎も思わずその手へ縋《すが》り付く。その二人の手を繋《つな》ぎ合わせ、妙な人は云うのであった。
「美しい衣服《きもの》は裁縫師《さいほうし》が製し位《くらい》や爵《しゃく》は式部寮が造る。要するにみんなつまらない物です。尊いものは人の愛だ! いつまでもいつまでも愛し愛さなければなりません。二人のうちの誰か一人がもしこの愛を破ったならその人は恐らく底の知れない不幸の淵へ沈むでしょう」
「はい」
と岩太郎は涙を流し、つつましく丁寧《ていねい》に頭を下げたが、
「たとえ殺すと云われましても今日のお教えに背《そむ》くようなことは必ず私は致しませぬ。……山吹! お前はどうする気だな?」
「岩さん、妾《わたし》が悪かった。もうどこへも行く気はないから悪く思わずに堪忍《かんにん》しておくれ」
「おおそうか、有難てえなア。何んの許すも許さぬもねえ。俺《わし》の方から礼を云うよ」
二人はひしと抱き合った、すすりなきの声が聞こえて来る、岩太郎の胸へ顔を埋めたそれは山吹の泣き声である。すなわち甘い誘惑のために危うく足を踏みはずそうとして、わずかに助けられた悲喜の情が泣き声となってほとばしったのである。
誰もじっと黙っている。
秋の真昼は静かである。
さっきから門口に佇《たたず》んで様子を見ていた牛丸は、この時つかつか[#「つかつか」に傍点]とはいって来たがさもさも感嘆したように妙な人へ話しかけた。
「あなたは偉い方で
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