今や彼女は自分が江戸へ出て行って立身出世をした時の事を空想に浮かべているのであった。
で、多四郎は懲《こ》りずにまた山吹の手をとったがやはり彼女はそのままでいた。
と、山吹は囈語《うわごと》のようにまたもこんなことを叫んだのであった。
「ああ妾《わたし》厭だ! 山の中は!」
「では参ろうじゃありませんか。花の大江戸の真ん中へね」
多四郎は山吹の手を引いた。彼女は彼に引かるるままに彼の胸の上に顔を埋ずめた。
「連れて行ってください! 連れて行ってください! 妾どうしたって江戸へ行きます!」
九
凄《すさま》じい微笑が一刹那《いっせつな》多四郎の頬に浮かんだが、山吹の顔をジリジリと上の方へ向けようとする。二人の顔が合った時多四郎は突然自分の顔を山吹の顔へ落としかけた。
とたんに笑い声が聞こえて来た。ハッとして二人が顔を上げると牛丸が門口に立っている。
「ヤーイ、何をベチャクチャしてるのだい! 岩さんに云い付けるぞ!」憎悪《ぞうお》の光を眼に湛《たた》え、「オイ岩さんがやって来るぞ! 妙な人と一緒にな!」
「馬鹿! 悪戯《いたずら》っ児《こ》! 厭な餓鬼《がき》!」
そこは部落の女である。猛烈の感情を一時に出して山吹は弟を罵《ののし》った。
「岩さんが何んだ! 岩太郎が何んだよ! 来たら追い出してやるばかりさ!」
「ふん」と牛丸も喧嘩腰《けんかごし》になり、「多四郎の奴が来ないうちは岩さんで大騒ぎをしたくせに!」グルリと森の方へ向きを変えたが、「やあもうそこまでやって来た。……妙な人が従《つ》いて来るよ……」
山吹も多四郎もそれを聞くと首を差し出して森の方を見た。
「あら、ほんとに岩さんが来る」山吹は周章《あわ》てて叫んだが、「来たら返してやるばかりだね」
「ははあ、不格好なあの男がそれじゃ岩という男ですな」多四郎は鼻を鳴らしながら、「私の家の庭男にも当たらぬ」
牛丸はさもさも[#「さもさも」に傍点]嬉しそうに、「俺《おい》ら岩さんを迎いに出てやろう」彼はそとまで走って行った。
「おや」
とにわかに多四郎は不安の様子を現わした。
「何んて恐ろしい顔付きだろう。あの妙な人の顔付きは!」
彼は両掛けを取り上げた。そうして横手の潜《くぐ》り戸《ど》から坂の方へパタパタと逃げ出した。
「あら、多四郎さんどうなすったの※[#感嘆符疑問符、1−8−78]」
山吹は驚いて叫んだが、「妾《わたし》も、妾も、妾も一緒に!」
――周章《あわ》てて潜り戸から飛び出した。
後には、部屋の中には誰もいない。黄色い秋陽がしらしら[#「しらしら」に傍点]と敷物の上を照らしている。小鳥が一羽戸惑いしてツト部屋の中へ飛び込んで来たが、すぐ驚いたように飛び出して行った。しん[#「しん」に傍点]と四辺《あたり》は静かである。
と、戸外《いえのそと》で話し声がする。
「牛丸さん、今日は」
「ああ、岩さん、今日は」
「姉さん家においでかね?」
「ええいますよ家の中に」
「どなたかお客さんでもありますか?」
「…………」
「とにかくはいって見ましょうかね」
すぐと土間へはいって来たのは、牛丸と岩太郎と白衣《びゃくえ》を着たすなわち「妙な人」とであった。
岩太郎は多四郎と同年輩であった。人柄はまるで反対であった。真面目で熱烈で堅実でいかにも部落の若者らしい。縞《しま》の筒袖《つつそで》に山袴《やまばかま》を穿《は》き獣皮の帯を締めている。
白衣の人物はそれとは異なり真に神のように神々《こうごう》しい。抜けるほど白い皮膚の色。髪を肩まで切り下げているのがかえって一種の尊厳を添える。白衣を長く裳《すそ》まで垂れ足の先を隠しているが、その足には何んにも穿《は》いていない。秀《ひい》でた額、高い鼻。形のよい口には微笑が湛《たた》えられ一見|赤児《あかご》さえ懐《なつ》きそうである。彼の眼は全く不思議なものである。つまり威厳の象徴であって、ある時は玲瓏《れいろう》珠の如くに見え、ある時は猛獣をも尻ごみさせるほどの恐ろしい眼にも見えるのであった。しかもそれが一瞬の休みもなく自由自在に変化するのであった。
岩太郎は四辺を見廻したが、
「おや誰も家にはいないじゃないか」
「やあ姉さんはどこへ行ったんだろう」牛丸は部屋部屋を探し歩いたが、
「いないいないどこにもいない。ああそれじゃ逃げたんだな。岩さんと逢うのが恥ずかしくて。ようし俺ら探して来よう」
飛び出そうとするのを抑えたのは白衣の妙な人であった。
「探さずともそのうち帰って来よう。巣のある鳥は巣へ帰るものじゃ。……で、お前さんが牛丸さんかね?」
親しそうに妙な人は尋ねたが、その声はちょうど岩を走る清水のように清らかであった。
悪戯者《いたずらもの》の牛丸もにわかに態度を改めたが
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