の神! 幸いの神! 男女の神! 子宝《こだから》の神! おおおお神様よ子宝の神様よ! どうぞ子宝をお授けください!」こう讃美する声なのであった。
 ここは邪教の道場なのであった。ここは淫祠《いんし》の祭壇なのであった。
 おお大江戸の真ん中に、こんな邪教があろうとは!
 と、その時、忽然《こつぜん》と、音楽の音《ね》が響いて来た。
 まず篳篥《ひちりき》の音がした。つづいて笙《しょう》の音がした。搦《から》み合って笛の音がした。やがて小太鼓が打ち込まれた。
 ……それは微妙な音楽であった。邪教に不似合いの音楽であった。神聖高尚な音色であった。
 俄然道場は一変した。男は女から飛び離れ、女は男から身を退けた。いずれも一斉にひざまずいた[#「ひざまずいた」に傍点]。そうして彼らは合掌した。
「ご来降! ご来降!」と同音に叫んだ。
「教主様のお出まし! 教主様のお出まし!」
 異口同音にこう云った。
 次第に音楽は高まって来た。それがだんだん近寄って来た。やがて戸口の外まで来た。
 しずかにしずかに戸が開いた。
 深紅《しんく》の松明《たいまつ》の火の光が、その戸口から射し込んだ。
 つと[#「つと」に傍点]二人の童子が現われ、続いて行列がはいって来た。童子が松明を捧げていた。光明が一杯部屋に充ちた。
 教主は男女二人であった。いずれも若く美しかった。普通に美しいと云っただけでは、物足りないような美しさであった。女は年の頃十八、九であろうか、緋《ひ》の袴《はかま》を穿いていた。そうして上着は十二|単衣《ひとえ》であった。しかも胸には珠をかけ、手に檜扇《ひおうぎ》を持っていた。
 男の年頃は二十一、二で、どうやら女の兄らしかった。その面が似通っていた。胸には同じく珠をかけ、足には大口を穿いていた。だがその手に持っているものは、三諸山《みむろやま》の神体であった。

         一一

 教主の後から老女が続き、そのまた後ろから幾人かの、美しい男女が続いた。
 部屋の中は皎々《こうこう》と輝いた。今まで見えなかった様々の物が――壁画や聖像や龕《がん》や厨子《ずし》が、松明の光で見渡された。それはいずれも言うも憚《はばか》り多い怪しき物のみであった。
 行列は部屋を迂廻した。
 信者の群は先を争い、二人の教主へ触れようとした。
 男の信者は女の教主へ、女の信者は男の教主へ、とりわけ触れようとひしめいた。
 男の教主の怪しき得物《えもの》と、女の教主の檜扇とは、そういう信者の一人一人へ、一々軽く触れて行った。
 こうして行列は静々と、広い部屋を迂廻した。
 そうして葉之助へ近付いて来た。
 葉之助は茫然《ぼんやり》と立っていた。
 どうしてよいか解らなかった。もちろん彼は邪教徒ではなかった。で、教主を拝することは、良心に咎《とが》めて出来なかった。と云って茫然《ぼんやり》立っていたら、咎められるに相違なかった。そうなったら事件が起こるだろう。信者でもない赤の他人が、道場へ入り込んでいたとすれば、教団にとっては打撃でなければならない。きっと憤慨するだろう。恐らく乱暴をするかもしれない。道場にいる全部の信徒が、刃向かって来ないとも限らない。
「いったいどうしたらいいだろう?」
 焦心せざるを得なかった、狼狽《ろうばい》せざるを得なかった。
 その間も行列は進んで来た。
 しかしてやがて葉之助の前へ二人の教主は立ち止まった。
 葉之助は絶体絶命となった。で、昂然《こうぜん》と顔を上げ、教主の顔を睨み付けた。
 二人の教主の胸の辺に、不思議な刺繍《ぬいとり》が施されてあった。それを見て取った葉之助は「あっ」と叫ばざるを得なかった。
 それは恐ろしい刺繍《ぬいとり》であった。彼に縁のある刺繍であった。彼はそれによってこの教団のいかなるものかを知ることが出来た。そうしてそれを知ったがために、彼は現在の自分の位置が、予想以上に危険であることを、はっきり[#「はっきり」に傍点]明瞭に知ることが出来た。
 俄然《がぜん》形勢は一変した。そうしてそれは悪化であった。
「あっ」という声に驚いて二人の教主は眼を※[#「目+爭」、第3水準1−88−85]《みは》った。
 そうしてその眼は必然的に、声の主へ注がれた。
 教主二人の四つの眼と、葉之助の眼とはぶつかっ[#「ぶつかっ」に傍点]た。
 それは火のような睨み合いであった。
 が、それは短かった。
 男の教主がまず叫んだ。
「教法の敵! 教法の敵!」
 女の教主が続いて叫んだ。
「鏡葉之助だ! 鏡葉之助だ!」
「この男を搦《から》め取れ!」
 ――つづいて起こったのが混乱であった。
 こんな順序で行われた。
 一斉に信徒達が立ち上がった。
 グルリと葉之助を取り囲んだ。
 行列は颯《さっ》と後へ引いた。信徒
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