云われるままに、木戸を潜ることにした。
四
女がコツコツと戸を叩くと、内側へスーと切り戸があいた。プーッと匂って来る快い匂い、まず葉之助の心をさらった[#「さらった」に傍点]。
はてな[#「はてな」に傍点]と思いながらはいったとたん、思わずあっ[#「あっ」に傍点]と声を上げた。
黒い高塀に囲まれているので、往来からは見えなかったが、庭一面に草花が爛漫《らんまん》と咲き乱れているのであった。
「これは綺麗な花園でござるな」感嘆して立ち止まった。
するとその時|園丁《えんてい》と見えて、鋤《すき》を担いだ大男が花を分けて現われたが、二人の姿をチラリと見ると逃げるように隠れ去った。
「咽《む》せ返るようなよい匂いだ」葉之助は幾度も深呼吸をしたが、「これは何んという花でござるな?」
「大茴香《おおういきょう》でございます」
「おおこれが茴香《ういきょう》か。ふうむ、実に見事なものだ。茴香といえば高価な薬草、さすが大槻玄卿殿は、当代名誉の大医だけあって、立派な薬草園を持っておられる」
さすがの葉之助も感心して、園に添って歩いて行った。すると一箇所一間四方ぐらい、その茴香の花園が枯れ凋《しぼ》んでいる箇所へ来た。
「これはどうも勿体《もったい》ない。茴香が枯れておりますな」葉之助は立ち止まった。
「はい主人も心配して、恢復策を講じますものの、一旦枯れかかった茴香は、容易なことでは生き返らず、こまっておるのでございます」女はこう云いながら耳を澄ました。どこかで地面を掘っている。鋤にあたる小石の音が、コチンコチンと聞こえて来る。
薬草園を通り過ぎると、館の裏座敷の前へ出た。明るい灯火《ともしび》が障子に映え、人の話し声も聞こえている。
「さあどうぞお上がり遊ばしませ」
云いながら女が先に上がり、スラリと障子を引きあけた。何んとなく身の締まる思いがして、葉之助は一瞬間|躊躇《ちゅうちょ》したが、覚悟をして来たことではあり、性来無双の大胆者ではあり云われるままに座敷へ上がった。
「しばらくご免を」と挨拶をし女は奥へ引き込んだ。
敷物の上へ端然と坐り、葉之助は部屋の中を見廻した。床に一軸が懸かっていた。それは神農の図であった。丸行灯《まるあんどん》が灯《とも》っていた。火光が鋭く青いのは在来の油灯とは異《ちが》うらしい。待つ間ほどなく現われたのは、剃り立ての坊主頭の被布《ひふ》を纏《まと》った肥大漢で、年は五十を過ぎているらしく、銅色をした大きな顔は膏切《あぶらぎ》ってテカテカ光っている。
「愚老、大槻玄卿でござる」こう云って坐って一礼したが、傲岸不遜《ごうがんふそん》の人間と見え、床の間を背にして坐ったものである。
「家人をお助けくだされた由《よし》、あれは小間使いとはいうものの、愚妻の縁辺でござってな、血筋の通った親類|端《はじ》、ようお助けくだされた。玄卿お礼を申しますじゃ」それでも一通りの礼は云った。
「拙者は鏡葉之助、内藤駿河守の家臣でござるが。ナニ助けたと申し条、ただちょっと通りかかったまで、そのご挨拶では痛み入る」葉之助も傲然と云った。「こんな坊主に負けるものか!」こういう腹があったからである。
「ほほう、内藤家の鏡氏、いやそれはご名門だ。お噂は兼々《かねがね》存じております。実は愚老は内藤様ご舎弟、森帯刀様へはお出入り致し、ご恩顧《おんこ》を蒙《こうむ》っておりますもの、これはこれはさようでござったか」
玄卿も相手が葉之助と聞いて、にわかに慇懃《いんぎん》な態度となった。
その時小間使いが現われたが、それは別の小間使いであった。片手に錫《すず》製の湯差しを持ちもう一つの手に盆を持っていたが、その盆の上には二つの茶碗と、小さな茶漉《ちゃこ》しとが置いてあった。そうして砂糖|壺《つぼ》とが置いてあった。
「うん、よろしい、そこへ置け」こう云って玄卿は頤《あご》をしゃくった[#「しゃくった」に傍点]。
「いやナニ鏡葉之助殿、これは南蛮茶と申しましてな、日本ではめった[#「めった」に傍点]に得られないもの、たいして美味でもござらぬが、珍らしいのが取柄《とりえ》でござる」
こう云いながら玄卿は、湯差しを手ずから取り上げると、茶漉しの上から茶碗の中へ深紅の液を注ぎ込んだ。それから匙《さじ》で砂糖を入れた。
「まず拙者お毒味を致す」
こう云うと一つの茶碗を取り上げ、半分ばかりグッと呑んだ。
「温《ぬる》加減もまず上等、いざお験《ため》しくださいますよう」
「さようでござるかな、これは珍味」
葉之助は茶碗を取り上げたが、そこでちょっとためらった[#「ためらった」に傍点]。
五
茶碗を取り上げた葉之助が、急に飲むのを躊躇《ちゅうちょ》したのは、当然なことと云わなければならない。
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