泣き喋舌《しゃべ》っているのであった。
「あの人|憤《おこ》って行ってしまったわ。どうしよう、どうしよう、どうしよう! よくまだ妾《わたし》が云わないうちにあの人憤って行ってしまったんだもの。そりゃ妾だって悪かったけれどあの人だってあんまりだわ。……でも妾ほんとにあんな事を何故あの人に云ったんだろう。――妾が都会《みやこ》へ行って見たいと云ったら、あの人にわかに妙な顔をして『何故行きたい』って訊《き》くものだから、『妾もうこんな山の上の部落なんかには飽き飽きした』って、ついうっかり云ってしまうと、あの人恐ろしい顔をして、『山吹、お前は、山の中に住むこの俺の顔にも飽きたろうな。弁解《いいわけ》したって通らねえよ。聞けば高島の城下(今の上諏訪町)から、多四郎とかいう生《なま》っ白《ちろ》い男が、お前を張りに来るそうだが、これ、気を付けねえといけねえぞ。かりにも窩人部落の女で、下界の人間と契《ちぎ》ったが最後天狗の宮の岩の上から深い谷底へ投げ下ろされ必ず生命《いのち》を失うのだからな』と声の調子まで恐ろしく変えて、こうあの人が云ったかと思うと自分の頭の毛を掻き※[#「てへん+毟」、第4水準2−78−12]《むし》り、『ああ俺はお前に騙《だま》された。俺は意気地《いくじ》のねえ人間だ。俺はお前に見捨てられた! もう俺はこれっきりお前とは逢わねえ! その多四郎とかいう下界の奴と手に手を取って部落を出るがいい。そうして下界の真人間となってうんと[#「うんと」に傍点]出世をするがいいや! だがな、山吹、よく覚えていろよ。お前が下界で出世している時俺はやっぱり窩人部落の八ヶ嶽の中腹の笹の平で、お前の事を恋い焦《こが》れながら猪《しし》熊猿を相手にして憐れに暮らしているってことをな!』……こういうと妾を振り切ってズンズン行ってしまったんだよ。誰があの人を騙《だま》したって云うの。妾《わたし》騙しなんかしやしないわ」
 彼女の前に誰かいて、その人に訴えてでもいるかのように彼女はいつまでも泣き喋舌《しゃべ》っている。
 秋の真昼のことであって黄味の勝った陽の光が家の内まで射し込んでいる。家造作《やづくり》は窩人の風俗通り大岩を掘り抜き柱を立てたいわゆる古代穴居族の普通の家造作と同じであったが、杉右衛門は一族の頭領だったので、したがってその住居は特別に広く半分《なかば》以上は岩窟から外へ喰《は》み出して造られているのであった。
 山吹は窩人族の乙女としてはほとんど類なく美しかった。やはり頭領の一人娘だけに衣裳などでも他の娘などより立派な物を着ているので自然引っ立ちもするのであろうが、下界高島の城下における立派な武士の令嬢と云っても充分通る容姿《ようす》であった。
 その美しい山吹が秋陽に半顔を照らしながらシクシク泣いているのであるから、ちょっと形容出来がたいほど可愛《かわい》らしく見えるのであった。
 その時、手近かの林の中から雉笛《きじぶえ》の音が聞こえて来たが、のっそり[#「のっそり」に傍点]草を分けて出て来たのは彼女の弟の牛丸であったが年はおおかた十四ぐらいでもあろうか、ひょいと[#「ひょいと」に傍点]家の前まで来ると、姉の様子を覗《のぞ》き込んだ。
「うわア、姉さん泣いてらあ。こいつアほんとに面白いや」
 林の中で捕ったのでもあろう雉を一羽|提《さ》げていたが、それを土間の方へ抛《ほう》り出すと縁側へどん[#「どん」に傍点]と腰を掛け、
「今ね、姉さん、多四郎さんがね、姉さんを訪ねてここへ来るよ」
「え、まあ本当! 多四郎さんが?」
「林の中から坂路の方を見たら素晴らしく洒落《しゃれ》込んだ多四郎さんがね、こっちへ上って来るじゃないか。で俺《おい》ら急いで走って行って色々あの人と話したがね……」
「まあそれじゃ本当なんだね」
 山吹は思わず手を上げて髪の乱れを掻き上げた。
 牛丸はそれを見るとニヤニヤして、
「ふうんこいつア妙だなあ、多四郎さんのこととなると姉さん変にソワソワするんだもの」
「そんな事云うもんじゃありませんよ。お前さんはまだ子供じゃないの。……それで多四郎さんは何んと云って?」
「ああ尋《たず》ねたよ姉さんの事を。『あなたの姉さんお幾歳《いくつ》?』てね。厭《いや》に気取った云い方でね」
「そうしてお前さんは何んて答えて?」心配そうに訊くのであった。
 牛丸はまたもニヤニヤしながら、「二十二だって云ってやったよ。つまり三つ懸け値をしてね」
「まあ」と呆《あき》れて山吹は思わず両手を打ち合わせたが、
「どうしようどうしよう悪戯《いたずら》っ子《こ》! 妾あの方に自分の年を十八だって云って置いたのよ!」
 二人の姉弟《きょうだい》は腹を抱え面白そうに笑ったが、その心地よい笑い声は森や林へ反響し二人の耳へ返って来た。

      
前へ 次へ
全92ページ中7ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
国枝 史郎 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング