−2−22]|泰然《たいぜん》と構え、姿勢に揺るぎもなく、三の矢四の矢五の矢まで、呼吸《いき》も吐けない素早さで弦音高く射放したが、旗はついに出なかった。
 ガッチリ弓を棚に掛け、袴《はかま》両袖《りょうそで》をポンポンと払うと、静かに葉之助は射場を離れ、端然と殿の前へ手を支《つか》えた。
「未熟の弓勢《ゆんぜい》お目にかけお恥ずかしゅう存じます」
「うむ」
 と云ったが駿河守は牀几《しょうぎ》に掛けたまま動こうともしない。何やら考えているらしい。
「源兵衛、源兵衛」
 と急に呼んだ。弓道師範の佐々木源兵衛小腰を屈《かが》めて走って来た。
「的をここへ持って来い」
「はっ」と云うと源兵衛は、扇を上げて差し招いた。旗の役の小侍は、それと見ると的を捧げ、矢場を縦に走って来たが、謹《つつし》んで的を源兵衛へ渡す。源兵衛から殿へ奉《たてまつ》る。
 的を眺めた駿河守は、
「おお」と思わず声を洩らした。「どうだ源兵衛これを見い!」
「はっ」と云って差し覗くと、思わずこれも「うむ」と唸った。矢は五本ながら中《あた》ってはいないが、しかしその矢は五本ながら同じ間隔と深さとをもって的の縁《へり》を擦《こす》っている。
「なんと源兵衛、どう思うな!」
「恐れ入ってござります」
「中《あ》てようと思えば中《あた》る矢だ」
「申すまでもございません」
「どうだ、印可《いんか》は確かであろうな」
「いやもう印可は抜いております」
「三蔵とはどっちが上手だ?」
「これは段が違います」
「そうであろう」と頷いたが、葉之助の方へ眼をやると、「さて、お前に聞くことがある。中《あ》てずに縁を擦《こす》ったは、竹林派に故実あってかな?」
「いえ、一向存じませぬ」
 葉之助は空|呆《とぼ》けた。
「知らぬとあってはしかたもないが、そちの学んだ竹林派について、詳しく来歴を語るよう」
「はっ」
 と云ったが葉之助、これはどうも知らぬとは云えない。そこで形を改めると、
「竹林派の来歴申し上げまする。そもそも、始祖は江州《ごうしゅう》の産、叡山《えいざん》に登って剃髪《ていはつ》し、石堂寺竹林房|如成《じょせい》と云う。佐々木入道|承禎《しょうてい》と宜《よ》く、久しく客となっておりますうち、百家の流派を研精し、一派を編み出し竹林派と申す。嫡男《ちゃくなん》新三郎水没し、次男弥蔵|出藍《しゅつらん》の誉《ほま》れあり、江州佐和山石田三成に仕え、乱後身を避け高野山に登り、後吉野の傍《そば》に住す。清洲少将忠吉公、その名を聞いてこれを召す。後、尾張|源敬公《げんけいこう》に仕え、門弟多く取り立てしうち、長屋六兵衛、杉山三右衛門、もっとも業に秀《ひい》でました由《よし》――大坂両度の合戦にも、尾張公に従って出陣し、一旦|致仕《ちし》しさらに出で、晩年|窃《ひそ》かに思うところあり、長沼守明《ながぬまもりあき》一人を取り立て、伝書工夫|悉《ことごと》く譲る。子孫相継ぎ弟子相受け今日に及びましてござりますが、三家三勇士の随一人、和佐大八郎は竹林派における高名の一|人《にん》にござります」
 弁舌さわやかに言上した。

         一〇

「昼行灯どころの騒ぎではない。これは素晴らしい麒麟児《きりんじ》だ。まるで鬼神でも憑《つ》いていて言語行動させるようだ……ははあ、それで弓之進め、この少年の行末《ゆくすえ》を案じ、朋輩先輩の嫉視《しっし》を恐れ、俄《にわ》か白痴《ばか》を気取らせたのであろう。弓之進め用心深いからな……そういう訳ならそれもよかろう。せっかくの目論見《もくろみ》だ、とげさせてやろう」
 駿河守は頷いた。
「今日の競技はこれで終わる。者ども続け!」
 と云い捨てると駿河守は馬に乗った。タッタッタッタッと帰館になる。近習若侍に立ち雑《まじ》り葉之助も後を追う。

 松崎清左衛門は何が不足で葉之助の入門を拒絶《ことわ》ったのであろう? それは誰にも解らない。しかし当の葉之助にとっては無念千万の限りであった。
「そういう訳なら師を取らずに己《おのれ》一人工夫を凝らし、東軍流にて秘すところの微塵《みじん》の構えを打ち破り清左衛門めを打ち据えてくれよう」
 間もなく葉之助は心の中でこういう大望を抱くようになった。彼はご殿から下がって来るや郊外の森へ出かけて行き、八幡宮の社前に坐って無念無想に入ることがあり、またある時は木刀を揮《ふる》って立ち木の股を裂いたりした。
「一にも押し、二にも押し、これが相撲の秘伝だそうだ。一にも突き二にも突き、これが剣道の極意である。しかし極意であるだけに誰も学んで珍らしくない……さてそれでは突き以外に必勝の術はあるまいか」
 来る夜も来る夜も葉之助はこの点ばかりを考えた。しかし容易には考え付かない。
「突きを止めれば斬《き》る一方だが、さてどこ
前へ 次へ
全92ページ中32ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
国枝 史郎 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング