聖にも勝るとも劣らぬ、立派な腕前を持っておられる」
「ほとほと驚嘆致しました」
「お前の技倆《うで》も立派なものだな」
「いえ、お恥ずかしゅう存じます」
「さすがはご親父南条殿は小野派一刀流では天下の名人、松崎殿にも劣るまいが、その三男に産まれただけあって十二歳の小腕には過ぎた技倆《うでまえ》、私も嬉しく頼もしく思う」
「お褒めにあずかり、有難う存じます」
「しかし天下には名人も多い」
「は、さようでございます」
「決して慢心致してはならぬ」
「慢心は愚《おろ》か、今後は益※[#二の字点、1−2−22]、勉強致す意《つも》りにござります」
「他人との立ち合いも無用に致せ」
「心得ましてござります」
「負ければ恥、勝てば怨まれる、腕立てせぬが安全じゃ」
「仰《おお》せの通りにござります」
「松崎道場でのお前の振る舞い、家中もっぱら評判じゃ」
「恐縮の至りに存じます」
「今のところお前の方が評判もよければ同情者も多い」
「ははあさようでございますか」
「評判がよいとて油断は出来ぬ」
「いかにも油断は出来ませぬ」
「よい評判は悪くなりたがる」
「お言葉通りにござります」
「落ちた評判は取り返し悪《にく》い」
「落とさぬよう致したいもので」
「そこだ」
と弓之進は膝を打った。
「よく気が付いた。そうなくてはならぬ。ついては今後は白痴《ばか》になれ」
「は?」
と云って葉之助は思わずその眼を見張ったものである。
「今後は白痴になりますよう」
弓之進は再びこう云うとじっ[#「じっ」に傍点]と葉之助を見守った。
「どうだ葉之助、まだ解らぬかな?」
「お言葉は解っておりますが……」
「うむ、その意味が解らぬそうな。それでは一つ例を引こう。武士の亀鑑《きかん》大石良雄は昼行灯《ひるあんどん》であったそうな」
「お父上! ようやく解りました!」
「おお解ったか。それは重畳《ちょうじょう》」
「私昼行灯になりましょう」
「ハッハハハ、昼行灯になれよ」
「きっとなってお目にかけます」
「昼の行灯は馬鹿気たもの、人は笑っても憎みはしない」
「御意《ぎょい》の通りにござります」
「我が家は内藤家の二番家老、門地高ければ憎まれ易《やす》い。お前の性質は鋭ど過ぎ、これまた敵を作り易い。それを避けるには昼行灯に限る」
「昼行灯に限ります」
「お、白痴《ばか》になれよ白痴になれよ」
その時襖が静かに開いて、茶を捧げたお石殿が部屋の中へはいって来た。
「徒然《つれづれ》と存じお茶を淹《い》れました」
「お母様」
と葉之助は、甘えた声で呼んだかと思うと、足を投げ出し横になった。「お菓子くだされお菓子くだされ!」
腕を延ばすと菓子鉢の菓子をやにわに摘んで頬張った。
「まあこの子は」
とお石は驚き、「平素《いつも》に似ない行儀の悪さ、お前|白痴《ばか》におなりだね」
「アッハハハ、その呼吸《いき》呼吸《いき》!」
弓之進は手を拍《う》った。
「これで我が家も葉之助もまずは安全というものじゃ。めでたいめでたい! アッハハハ」
八
内藤駿河守正勝は初老を過ごすこと五つであったが、性|濶達《かったつ》豪放で、しかも仁慈《じんじ》というのだから名君の部に属すべきお方、しかし、欠点は豪酒にあった。今日も酒々、明日も酒……こう云ったような有様である。
ある日弓之進が伺候《しこう》すると、
「そちの養子葉之助、今年十二の弱年ながら珍らしい武道の達人の由、部屋住みのまま百石を取らせる、早々殿中へ差し出すよう、近習《きんじゅう》として召し使い遣《つか》わす」
「これはこれは分に過ぎたる有難きご諚《じょう》ではござりますが、葉之助儀は脳弱く性来いささか白痴にござりますれば……」
「これこれ弓之進、痴《たわ》けたことを申すな!」
濶達の性質を露出《まるだ》しにして駿河守は怒鳴るように云った。
「性来白痴の葉之助が、近藤司気太、白井誠三郎、山田左膳というような武道自慢の若者どもを打ち込むほどの技倆《うでまえ》になれるか!」
「恐らく怪我勝ちにござりましょう」
「石渡頼母の三男などは代稽古の技倆ということだが、葉之助とは段違いだそうだ。そんな白痴なら白痴結構。是非明日より出仕をさせろ」
こう云われてはしかたがない。それに有難いご諚である。弓之進はお受けをした。
で、翌日から葉之助はご前勤めをすることになった。
艶々した前髪立ち、年は十二というけれど一見すれば十八、九、鼻高く眼涼しく、美少年であって且《か》つ凛々《りり》しい眼の配り方足の運び方、武道の精髄に食い入ったものである。
「何んのこれが白痴なものか」
駿河守は一眼見るとひどく葉之助が気に入った。
しかし葉之助は往々にして度外れた事をするのであった。例えばご前で足を延ばしたり、歩きながら
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