またもや山上から賑やかな笑い声が聞こえて来た。
「あれだ、あれだよ、あの笑い声だよ、俺達にとっての福音《ふくいん》はね」
「はてね、俺には解らねえ」
「何さ、雪のある間だけは部落はいつもお祭りだってことよ。その隙に仕事をしようって事よ」

         一五

 こういうことがあってからまた幾月かの日が経った。
 一月となり二月となり、暖かい江戸では梅が散り桜の花が咲こうというのに、窩人部落の笹の平は深い雪に包まれていた。
 そうして大変平和であった。
 いつも唄声と笑い声とが点々と散らばって立っている家々の中から聞こえて来た。
 彼らは歓楽に耽《ふけ》っているのだ。
 しかしそういう平和な部落にも時あって禍《わざわ》いが起こるものである。
 ある日、大声で喚《わめ》きながら雪の部落を駈け廻るものがあった。それは他でもない岩太郎である。
 人々は驚いて彼を引き止めて、どうしたのかと訳《わけ》を聞いた。
「杉右衛門の娘の俺の許婚《いいなずけ》、あの美しい山吹が、部落を捨て俺を見限り下界の虚栄に憧憬《あこが》れて多四郎めと駈け落ちした」
 これが岩太郎の返辞であった。
「罰当《ばちあた》りめ!」
 と、人々は、それを聞くとまず云った。
「この結構な住居《すまい》を捨て、先祖代々怨み重なる下界の人間と一緒になるとは神罰を恐れぬ馬鹿な女だ。恐らく将来《ゆくすえ》よい事はあるまい、後悔するに相違ない」
 こう云って彼らは部落を去った女を、あるいは憎みあるいは憐れんだ。
 しかし今は早春であり部落は雪に包まれている。彼らにとっての享楽時代である。で、彼らは平素《ふだん》であったならもっともっと大騒ぎでもっともっと非難攻撃すべきこの重大の裏切り事件をも案外|暢気《のんき》に見過ごした。そういう他人の事件に関係《かかわ》り大事な時間を費やすより、自分自身快楽に耽《ふけ》り、いわゆる年中での遊び月を充分に遊んで暮らした方が幸福であると思ったからであろう。
 とは云え、許婚《いいなずけ》の岩太郎と山吹の父の杉右衛門とは他人のようにそう簡単に見過ごすことは出来なかった。
 まず岩太郎の心持ちから云えば、嫉妬、憤怒、そして悲哀。――この三つの感情が胸の中で取っ組み合い一時の平和さえ得られないのであった。
 で、せめて身体《からだ》を疲労《つか》らせ、それによって心の苦痛悲哀を痲痺《まひ
前へ 次へ
全184ページ中31ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
国枝 史郎 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング