駄話をする。それ以外には用はない。
 彼らの話の題材と云えば「宗介天狗」の事ばかりで、彼らにとって「宗介天狗」は誰よりも尊い守り本尊であった。
 もちろん白法師の噂も出た。
「部落の平和を破る者だ」
 こう云って人々は憎むのであった。――しかし概《がい》して冬の間は彼らの部落は平和であった。

 深山の夜は更けていた。
 空に幽《かす》かに月がある。
 見渡す限り雪に蔽《おお》われ森も林も真っ白である。
 と、一点黒い影が雪の上へ浮かび出た。熊か? いやいや人間らしい。しかもどうやら重い物を背中に背負っているらしい。ノロノロ蠢《うごめ》きながら近寄って来る。
 ここは八ヶ嶽の中腹である。窩人の部落からは真下に当たる「鼓《つづみ》ヶ|洞《ほら》」という谷間である。正面に絶壁が聳《そび》えている。
 その絶壁の下まで来ると黒い人影は立ち止まった。
「おい」
 と、不意に呼びかけた。
「俺だ俺だ早く戸を開けてくれ」――囁《ささや》くような声である。
 誰をいったい呼んでいるのであろう。誰もその辺にはいないではないか。それに戸を開けろと云ったところでどこにも家などないではないか。
 森然《しん》と四辺《あたり》は静かである。
 と、不思議にもどこからともなく答える声が聞こえて来た。
「おい、誰だ? 権九郎か?」
 すると黒い人影は寒そうに声を顫《ふる》わせながら、
「声音《こわね》でおおかた解りそうなものだ。こんな所へこんな夜中に俺の他に誰が来るものか」
「誂《あつら》え物《もの》は持って来たろうな?」
「へ、ご念にゃ及ばねえ。数々の売品《ばいひん》持って参って候《そうろう》だ、寒くていけねえ早く開けてくんな」
「お前一人で来たんだろうな?」
「こいついよいよ関所だわえ。安宅《あたか》の関なら富樫《とがし》だが鼓ヶ洞だから多四郎か。いや睨《にら》みの利《き》かねえ事は。……あいあい某《それがし》一人にて候」
「よし。それじゃ戸を開けるぜ」
 声と一緒にガチンという錠を外す音が聞こえて来たがすぐその後からギーという戸の軋《きし》る音が幽かにして、雪で蔽われた雑木林にボーと一所《ひとところ》火影が射《さ》した。
 木々で隠され雪で蔽われ外見からはほとんど見えないけれど絶壁の裾の灌木《かんぼく》の繁みにどうやら木小屋でも出来ているらしい。火影もそこから来るらしい。
 再び戸の軋る
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