うに出来ております。……それに反してこの笹の平は何んという結構な所でしょう」
 云いながら静かに身を廻《めぐ》らし戸外《そと》の景色を指差したが、
「畑を耕す男、車を押す女。楽しそうに叫んでいる子供や犬。……何んと長閑《のどか》ではありませんか。……真昼の光に照らされて紅葉の林が燃え立っております。雑草に雑《まじ》った野菊の花。風に揺れなびく葛《くず》の花。花から花へ蜜をあさる白い蝶《ちょう》や黄色い蝶、峰から丘、丘から谷、谷から麓《ふもと》へ群を作《な》して渡って行く渡り鳥。……何んと平和ではありませんか。――谷川の音は自然の鼓、松吹く風は天籟《てんらい》の琴、この美妙の天地のなかに胚胎《はぐく》まれた恋の蕾《つぼみ》に虫を附かせてはなりません。――幸福というものは破れ易くまた二度とは来ないものです」
 こう云いながら妙な人は二人の方へ手を延ばした。と、山吹も岩太郎も思わずその手へ縋《すが》り付く。その二人の手を繋《つな》ぎ合わせ、妙な人は云うのであった。
「美しい衣服《きもの》は裁縫師《さいほうし》が製し位《くらい》や爵《しゃく》は式部寮が造る。要するにみんなつまらない物です。尊いものは人の愛だ! いつまでもいつまでも愛し愛さなければなりません。二人のうちの誰か一人がもしこの愛を破ったならその人は恐らく底の知れない不幸の淵へ沈むでしょう」
「はい」
 と岩太郎は涙を流し、つつましく丁寧《ていねい》に頭を下げたが、
「たとえ殺すと云われましても今日のお教えに背《そむ》くようなことは必ず私は致しませぬ。……山吹! お前はどうする気だな?」
「岩さん、妾《わたし》が悪かった。もうどこへも行く気はないから悪く思わずに堪忍《かんにん》しておくれ」
「おおそうか、有難てえなア。何んの許すも許さぬもねえ。俺《わし》の方から礼を云うよ」
 二人はひしと抱き合った、すすりなきの声が聞こえて来る、岩太郎の胸へ顔を埋めたそれは山吹の泣き声である。すなわち甘い誘惑のために危うく足を踏みはずそうとして、わずかに助けられた悲喜の情が泣き声となってほとばしったのである。
 誰もじっと黙っている。
 秋の真昼は静かである。
 さっきから門口に佇《たたず》んで様子を見ていた牛丸は、この時つかつか[#「つかつか」に傍点]とはいって来たがさもさも感嘆したように妙な人へ話しかけた。
「あなたは偉い方で
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