で、彼は行くことにした。
しかしその前に仕事があった。
薬を調合しなければならない。
襖を開けると薬棚があった。いろいろの薬を取り出した。薬研《やげん》に入れて粉に砕いた。幾度も幾度も調合した。黄色い沢山の粉薬が出来た。棚から黄袋を取り出した。それへ薬を一杯に詰めた。五合余りも詰めたろう。それをさらに風呂敷に包んだ。それからそれを懐中した。
編笠を冠って旅籠《はたご》を出た。辻待ちの駕籠へポンと乗った。
「根岸まで急いでやってくれ」
「へい」と駕籠は駈け出した。
「よろしい」と云って駕籠を出た。
それからブラブラ歩いて行った。
内藤家のお下屋敷、それを廻って広場の方へ行った。広場の彼方に屋敷があった。帯刀様の屋敷であった。北山は地上へ眼を付けた。一筋引かれた白粉の痕は、もうどこにも見られなかった。その辺は綺麗に平《なら》されていた。格闘したらしい跡もなかった。血の零《こぼ》れたような跡もなかった。
「後片付《あとかたづ》けをしたそうな。これではたとえ格闘をしてもまた斬り合っても証拠は残らぬ……これはいよいよ心配だ」
北山は佇《たたず》んで考えた。
「思い切って森家へ乗り込もうか、乗り込んで乗り込めないこともない。とにかく一度ではあったけれど、帯刀様にお呼ばれして、おうかがいしたこともあるものだからな」
だが表向き乗り込んだのでは、葉之助の消息を訊ねることが、不可能のように思われた。
「では乗り込んでも仕方がない」
彼は思案に余ってしまった。
「この方はもう少し考えることにしよう……もう一つの方を探って見よう」
浅草の方へ足を向けた。
奥山は例によって賑わっていた。
「八ヶ嶽の山男」それを掛けている小屋掛けの前で、北山はピタリと足を止めた。
見れば看板が外されてあった。木戸にも人がいなかった。小屋の口は閉ざされていた、どうやら興行していないらしい。
と、一人の若者が、戸口を開けて現われた。元気のないような顔をして、ぼんやり外を眺めていた。小屋者であるということは、衣裳の様子ですぐ解った。
北山はそっちへ寄って行った。
「今日は興行はお休みかね?」何気ないように声を掛けた。
すると若者は北山を見たが、
「へえ、まあそんな[#「そんな」に傍点]恰好《かっこう》で」云うことが変に煮《に》え切らなかった。
「天気もよければ人も出ている。こんない
前へ
次へ
全184ページ中172ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
国枝 史郎 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング