掻くよりもいっそやっぱりここにいて兎や猿と暮らした方が身のためになりはしますまいか」
「その心配はご無用です。この多四郎が付いておりやす」彼はポンと胸を叩いたがこういう気障《きざ》なやり口も浮世を知らぬ山の娘にはかえって頼《たの》もしく思われるらしい。で、彼女は莞爾《にっこ》りした。
「あの、そうしてあなたのお家も、お江戸にあるのでございましょうねえ?」
「お江戸? そうそう江戸にあります」
こう多四郎は云ったものの心中ギクリとしたのであった。彼は城下の人間で江戸などに邸はないからである。
「広いお家でございましょうねえ?」
山吹はまたも恍惚《うっと》りと訊く。
「え、私の家ですかな? ……ええまあ随分広うごすなあ」――その実多四郎は家ときたら一間《ひとま》しかない裏店《うらだな》なのである。
「ご家内も随分多いんでしょうねえ?」
「家内ええと、二、二十人」――彼は思わず額《ひたい》を拭いた。汗が滲《にじ》んで来たからである。その筈である。彼の家族は彼と母親との二人きりなのだから。
「ああ、駄目だわ! 妾なんか!」
突然絶望の声を上げ、山吹が両眼を抑《おさ》えたので多四郎はギョッとして腰を浮かせたが、何が駄目なのか解らない。
「ああ、妾なんか及ばないわ!」
再び彼女は叫んだものである。
「及ばない? 何が? どうしてですな?」
云いながら好機|逸《いっ》すべからずと彼は山吹の手をとった。それからそっと腰をかける。
山吹も今度はとられた手を振り放そうとはしなかった。じっとそのままとらせている。
「でもやっぱり行きたいわ。……」
囈語《うわごと》のようにこう云って彼女は多四郎の顔を見たが、
「あなたはどういうご身分のお方? お侍《さむらい》さんではありませんわねえ」
「違いますとも。そうではありませんとも」
「では、お百姓? ああ商人ね! 大きな大きな商人ね! でもどうしてそんなお方が行商などをなさいますの?」
「さあ、そこです。……」
と、多四郎は、また額を磨《こす》ったが、
「つまり、見習いをしているので。……」
「ああそう、それで解りました」
山吹はそこで押し黙って何か空想にふけり出した。と、多四郎は彼女の手を自分の口まで持って来てつと[#「つと」に傍点]唇を着けようとする。その手を山吹はちょっと引いたがそれは無心でしたことであった。そんな事より
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