のような深夜《よふけ》にこのような所で、何を泣いておられるな?」
「はい」と云ったがその娘は顔から袖を放そうとはしない。白い頸、崩れた髪、なよなよとした腰の辺《あた》り、男の心を恋に誘い、乱らがましい心を起こさせようとする。
「どこのお方で何んと云われるな?」
葉之助は優しくまた訊いた。
「産まれは京都《みやこ》、名は水藻《みずも》、恐ろしい人買《ひとか》いにさらわれまして……」
「いやいやそうではござるまい」鏡葉之助は静かに云った。
「生れは神宮寺、名は久田……」
「え?」と娘は顔を上げる。
「馬鹿!」と一喝、葉之助は、抜き打ちに颯《さっ》と切り付けた。と、娘は狼狽しながらも、ピョンと背後へ飛び退くと、袖を手に巻きキリキリと頭上高く差し上げたが、それをグルグルグルグルと、渦巻きのように廻したものである。
心に隙はなかったが、相手の不思議の振る舞いを怪しく思った葉之助は、じっと[#「じっと」に傍点]その手へ眼を付けた。次第に精神が恍惚となる。すなわち今日の催眠術だ。葉之助はそれへ掛かったのである。「あ、やられた」と思った時には、身動きすることさえ出来なかった。月も湖水も柳の木も、娘の姿ももう見えない。グルグルグルグルと渦巻き渦巻く奇怪な物象が眼の前で、空へ空へ空へ空へ、高く高く高く高く、ただ立ち昇るばかりである。
彼は刀を握ったまま湖水の岸へ転がった。彼は昏々と眠ったのである。そうして翌朝百姓によって呼び覚まされたその時には、腰の大小から衣裳まで悉《ことごと》く剥ぎ取られていたものである。
二四
これは武士たる葉之助にとっては云いようもない恥辱であった。
彼は城内の別館で、爾来《じらい》客を避けて閉じ籠もった。そうして病気を口実に、正式の使者の会見をさえ延期しなければならなかった。
しかし忽《たちま》ちこの噂は城の内外へ拡まった。
「内藤家より参られた病気見舞いの使者殿が不思議なご病気になられたそうな」
「さよう不思議なご病気にな。一名|仮病《けびょう》とも云われるそうな」「不面目病とも申されるそうな」「恥晒《はじさ》らし病とも申されるそうな」――などと悪口を云う者もある。どう云われても葉之助にはそれに反抗する言葉がない。
「噂によれば葉之助という仁《ひと》は、内藤殿のご家中でも昼行灯と異名を取った迂濶《うかつ》者だということである
前へ
次へ
全184ページ中92ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
国枝 史郎 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング