だ、早く灯火《あかり》を点《つ》けるがよい」
 島太夫は恭《うやうや》しく一揖《いちゆう》したが、そろそろと龕《がん》まで歩いて行き燭台に仄《ほの》かに灯をともした。部屋の中が朦朧《もうろう》と明るんで来る。
 宗介は部屋の中を見廻したが、
「……これが昔の俺の城か。あの華美《はなやか》だった部屋だというのか。熊の毛皮を打ち掛けた黒檀《こくたん》の牀几《しょうぎ》はどこへ行った。夜昼絶えず燃えていた銀の香炉もないではないか。……や、ここに十字架《クルス》がある! 誰がここへ置いたのだ? 何んのためにマリヤを飾ったのだ! 俺は昔から天帝《ゼウス》に対して何んの尊敬も払っていなかった。ましてマリヤや基督《キリスト》に対しては頭を下げたことさえない。天帝《ゼウス》の教えを信じたのは俺ではなくて夏彦であった。……島太夫お前は覚えていような。十四年前のある晩に俺と夏彦とは部下を従え三隻の軍船に打ち乗って湖水を分け天竜川を下り一人の女の愛を得ようと阿修羅《あしゅら》のように戦ったことを! ああある時は二つの船は舷《ふなばた》と舷とを触れ合わせて白刃と白刃で切り合った。またある時は二つの船は互いに遠く乗り放し矢合わせをして戦った。闇の夜には篝《かがり》を焼《た》き、星明りには呼子《よびこ》を吹き、月の晩には白浪《しらなみ》を揚げ、天竜の流れ遠州《えんしゅう》の灘《なだ》を血にまみれながら漂《ただよ》った。永い間の戦いに夏彦の部下も俺の部下も一人残らず死に絶えた。俺の弓矢は朽《く》ちて折れ夏彦の弓矢も朽ちて折れた。しかも二人の怨みばかりは綿々《めんめん》として尽きぬのだ」
「その間中このお城にもいろいろの出来事がござりました」
 老いたる家来《けらい》島太夫は眼をしばたたき[#「しばたたき」に傍点]ながら云うのであった。
「お城に止どまった武士《もののふ》達がお殿様方と夏彦様方と明瞭《はっき》り二派に立ち別れ、切り合い攻め合い致しましたため次第次第に人は減り、やがて死に絶えてしまいました。その寂しさに堪えられず、お姫様の柵《しがらみ》様は天帝《ゼウス》の恩寵《おんちょう》にお縋《すが》りして安心を得ようとなされました。それをどうして知ったものか九州|天草《あまくさ》や南海の国々から天帝を信じる尼様達が忍び忍びにおいでなされ、お姫様と力を合わせ殺伐《さつばつ》であったこのお城を祈祷十
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