から彼女はそろそろと歩いて姫の寝間の前まで来た。
「可哀そうな久田姫や、お前の恋しがっているお父様は、もうこの世にはおいでなさらぬのだよ。お前はこれからは一生をちょうど陽蔭《ひかげ》の花のように寂《さび》しく咲かなければならないのだよ。おお可哀そうな久田姫や! そしてお前のお母様は……そしてお前のお母様は……」
 そこに立ててある几帳《きちょう》の蔭へ彼女は静かにはいって行った。と、一瞬間「あっ」という声が几帳の蔭から聞こえて来たが、ただ一声聞こえただけで後は寂然《しん》と静かになった。
 あわただしい足音を響かせて、島太夫が部屋へ飛び込んで来たのはそれから間もなくのことであった。
「お姫様《ひいさま》! 柵《しがらみ》様!」
 と彼は四辺《あたり》を見廻したが、
「お、これは灯が消えている。それにお休みなされたらしい。……お姫様! お姫様! お起き遊ばさねばなりませぬ! 三点鐘が鳴りました!」
 しかしどこからも返辞がない。几帳の蔭はひそやかである。

         四

「寝息も聞こえぬとはどうしたことだ。よくよくご熟睡遊ばしたと見える。がどうしてもお起こし申さねばならぬ」彼は几帳へ手を掛けたが、「ごめんくださりませお姫様……あっ! これは! 南無三宝《なむさんぼう》!」
 思わず膝をついた一刹那《いっせつな》、タッタッタッと階段を登る逞《たくま》しい足音が聞こえて来たが、闇にもそれと見分けのつく鎧冑《よろいかぶと》に身をよそった一個長身の武士《もののふ》が颯《さっ》と蝙蝠《こうもり》でも舞い込んだように老人の眼前へ現われた。
「誰だ!」と島太夫は声を掛ける。「何用あって参ったぞ! 身分を明かし名をなのれ!」
 すると不思議な侵入者は葬式に鳴らす太鼓のような深い不気味な濁った声で、
「命令するのだ! 灯火《ひ》をつけろ!」ツト一足進んだが、「……年頃闇には慣れておれど久々で見るこの部屋がこう暗くては面白くない。さあすぐに灯火《ひ》をつけろ!」
「そういうお声は? ……あなた様は?」
「俺はこの城の持ち主だ! 俺は橘宗介だ!」
「お殿様でござりましたか」
「何より先に灯《ひ》をつけろ。――そちはたしかこの城で物見の役をつとめていた島太夫と云った老人であろう。幽《かす》かに声に覚えがある。もしその島太夫であるならば忠義一図の男の筈《はず》だ。そちの主人が命ずるの
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