静かに開いて、茶を捧げたお石殿が部屋の中へはいって来た。
「徒然《つれづれ》と存じお茶を淹《い》れました」
「お母様」
 と葉之助は、甘えた声で呼んだかと思うと、足を投げ出し横になった。「お菓子くだされお菓子くだされ!」
 腕を延ばすと菓子鉢の菓子をやにわに摘んで頬張った。
「まあこの子は」
 とお石は驚き、「平素《いつも》に似ない行儀の悪さ、お前|白痴《ばか》におなりだね」
「アッハハハ、その呼吸《いき》呼吸《いき》!」
 弓之進は手を拍《う》った。
「これで我が家も葉之助もまずは安全というものじゃ。めでたいめでたい! アッハハハ」

         八

 内藤駿河守正勝は初老を過ごすこと五つであったが、性|濶達《かったつ》豪放で、しかも仁慈《じんじ》というのだから名君の部に属すべきお方、しかし、欠点は豪酒にあった。今日も酒々、明日も酒……こう云ったような有様である。
 ある日弓之進が伺候《しこう》すると、
「そちの養子葉之助、今年十二の弱年ながら珍らしい武道の達人の由、部屋住みのまま百石を取らせる、早々殿中へ差し出すよう、近習《きんじゅう》として召し使い遣《つか》わす」
「これはこれは分に過ぎたる有難きご諚《じょう》ではござりますが、葉之助儀は脳弱く性来いささか白痴にござりますれば……」
「これこれ弓之進、痴《たわ》けたことを申すな!」
 濶達の性質を露出《まるだ》しにして駿河守は怒鳴るように云った。
「性来白痴の葉之助が、近藤司気太、白井誠三郎、山田左膳というような武道自慢の若者どもを打ち込むほどの技倆《うでまえ》になれるか!」
「恐らく怪我勝ちにござりましょう」
「石渡頼母の三男などは代稽古の技倆ということだが、葉之助とは段違いだそうだ。そんな白痴なら白痴結構。是非明日より出仕をさせろ」
 こう云われてはしかたがない。それに有難いご諚である。弓之進はお受けをした。
 で、翌日から葉之助はご前勤めをすることになった。
 艶々した前髪立ち、年は十二というけれど一見すれば十八、九、鼻高く眼涼しく、美少年であって且《か》つ凛々《りり》しい眼の配り方足の運び方、武道の精髄に食い入ったものである。
「何んのこれが白痴なものか」
 駿河守は一眼見るとひどく葉之助が気に入った。
 しかし葉之助は往々にして度外れた事をするのであった。例えばご前で足を延ばしたり、歩きながら
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