屋の他にもあったけれど、名に負う名古屋は三家の筆頭、尾張大納言家の城下であって、江戸、大阪、京都を抜かしては、規模の広大、輪奐の美、人口の稠密比べるものがない。その大都が夕陽の下に、昼の活動から夜の活動へ入り込もうとして湧き立っていた。
ゴーッというような鈍い騒音――人声、足音、車馬の響き、そういうものが塊まって、そういう音を立てるのであろう。蜒《うね》り折《くね》った帯のように、町を横断しているのは、西村堀に相違ない。船が二三隻よっていた。寺々から梵鐘が鳴り出した。
「何んの不足があるんだろう?」香具師は声に出して呟いた。「これだけの大都の支配者じゃあ無いか? 結構すぎる程の身分じゃあ無いか……人間慾には限りはねえ。一つの慾を満足させりゃあ、つづいて最う一つの慾が起こる。そいつを果たすと最う一つ。で、一生止む時はねえ。……上を見れば限りはねえが、下を見ても限りはねえ。明日の生活に困るような、然ういう人間だってウザウザ居るその官位は中納言、その禄高は六十五万石、尾張の国の領主なら、不平も何も無い筈だがなあ。……将軍に成りてえのは道理としても、成ったら苦労が多かろうに。……だがマァそれは夫れとして、大岡越前守様が来ていようとは、俺に執っちゃあ寝耳に水だ! いや何うも驚いたなあ」じっと思案に耽ったが「兎も角俺の仕事も済んだ。どれソロソロ引き上げようか」
屋根の傾斜をソロソロと下った。髪編紐を伝わり四重の屋根へ、素早く香具師は下り立った。
「殿様、ゆっくり大屋根から、城下を眺めさせて戴きやした。えらい景気でございますなあ」
ヒョイと部屋の中へ飛び込んだ。
お半の方と宗春は驚いたように眼を※[#「目+爭」、第3水準1−88−85、100上−6]《みは》った。だが香具師も眼を※[#「目+爭」、読みは「みは」、第3水準1−88−85、100上−7]った。お半の方が泣き濡れて居り宗春がひどく[#「ひどく」に傍点]寂しそうに、悄然と立っているからであった。
二二
さて其夜のことである。
若松屋へ城中から使者が行った。
江戸の町奉行大岡忠相に、宗春話し度いことがある。夜分ではあるが登城するよう。――これが使者の口上であった。
「かしこまりましてございます」
白を切った所で仕方が無い。大岡越前守はお受けをした。
白石治右衛門、吉田三五郎、二人の家来に駕籠側を守らせ、越前守が登城したのは、それから間も無くのことであった。幅下門から榎多御門、番所を通ると中庭で、北へ行けば西之丸、東へ行けば西柏木門、そこから本丸へ行くことが出来た。どうしたものか本丸へは行かず、御蔵門から西之丸の方へ、越前守だけを案内した。
これには深い意味があった。と云うのは西之丸に、六棟の土蔵が立っているからで、それを見せようとしたのであった。
案内役は勘定奉行、北村彦右衛門と云って五十歳、思慮に富んだ武士であった。
こうして一之蔵へ差しかかったが、見れば扉が開いている。
如何にも越前守は驚いたように、蔵の前で俄に足を止めた。
「これは近来不用心、土蔵の扉が開いて居ります」
「お目に止まって恐縮千万」こうは云ったものの北村彦右衛門、内心では「締めた」と呟いた。「番士の者共の不注意でござる。併し内味が空っぽでは、つい警護も疎かになります」
「左様なこともございますまい。大納言様はご活達、随分派手なお生活を、致されるとは承わっては居るが、敬公様以来貯えられた黄金、莫大なものでございましょう」
「いやいや夫れもご先代迄で、当代になりましてからは不如意つづき、困ったものでございます」
二之御蔵、三之御蔵四、五、六の御蔵を過ぎたが、何の御蔵も用心手薄く、扉が半開きになっていたり番士が眠っていたりした。
透《すき》御門から御深井丸へ出、御旅蔵の東を抜け、不明門から本丸へ這入った。矢来門から玄関へかかり、中玄関から長廊下、行詰まった所が御殿である。
「暫くお控え[#「お控え」は底本では「お控へ」と誤記]下さいますよう」
山村彦右衛門は引っ込んだ。
一室に坐った大岡越前守、何やら思案に耽り乍ら、ジロジロ部屋の中を見廻わした。
御殿の中が騒がしい。歩き廻わる足音がする。何んとなく取り込んでいるらしい。
「大分狼狽しているようだ」ニンヤリ笑ったものである。「御殿の扉を開けて見せたり、番士を故意と、眠らせて見せたり、手数のかかった小刀細工、それで俺の眼を眩まそう[#底本では「呟まそう」]とは、些少《ちと》どうも児戯に過ぎる……いずれ御蔵内の黄金なども、何処かへ移したことだろうがさて何処へ移したかな? これは是非とも調べなければならない」
その時正面の襖が開いた。だが、一杯に開いたのではない、ほんの細目に開いたのであった。誰か隙見をしているらしい。
「無
前へ
次へ
全22ページ中20ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
国枝 史郎 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング