の手を下へ垂れた。
 尚城下を見下ろし乍ら、宗春は悩ましく云い続けた。
「お前と、眠剤とこれさえ有ったら、俺は他には何んにも不用《いら》ない」
 お半の方は懐剣を落とした。床に中たって音を立てた。
 はじめて宗春は振返った。
 お半の方は首垂れた。その足下に懐剣があった。お半の方はくず[#「くず」に傍点]折れた。宗春には訳が解らなかった。お半の方と懐剣とを、茫然として見比べた。
 長い両袖を床へ重ね、お半の方は額を宛てた。肩が細かく刻まれるのは、忍び泣いている証拠であった。
 お半の方は顔を上げた。懐剣を取って差し出した。
「お手討ちになされて下さいまし」
 お半の方は咽び乍ら云った。
「何故な?」
 と宗春は不思議そうに訊いた。
「その懐剣は何うしたのだ?」
「はい、是でお殿様を……」
「ははあ俺を刺そうとしたのか?」
「……その代り妾もお後を追い……」
「うむ、心中というやつだな」
「……お弑《しい》し致さねばなりません。……お弑しすることは出来ません。……恨みあるお方! 恋しいお方! ……二道煩悩……迷った妾! ……お手討ちなされて下さいまし!」
「一体お前は何者だ?」
「妾の父はお殿様に……」
「可い可い」
 と宗春は手を振った。
「云うな云うな、俺も聞かない。……
 ……父の仇、不倶戴天、こういう義理は小|五月蠅《うるさ》い。……訊きたいことが一つある。お前は将来も俺を狙うか?」
 お半の方は黙っていた。
「殺せるものなら殺すがいい。殺されてやっても惜しくはない。だが、よもや殺せはしまい。……俺は野心を捨てるつもりだ。お前も義理を捨てて了え! 二つを捨てたら世のなかは住みよい。住みよい浮世で、活きようではないか。……俺には、お前が手放せないよ」
 お半の方はつっ伏した。両手で宗春の足を抱いた。一生放さないというように。宗春は優しく見下ろした。その眼を上げて四辺を見た。
「や、香具師の姿が見えぬ。はてさて、性急に何処へ行ったものか?」
 寺院で鳴らす梵鐘《かね》の音が、幽ながらも聞えて来た。夕陽が褪めて暗くなった。

     二一

 五重の天主の頂上の間の、狭間から飛び出した香具師は、壁へピッタリ背中を付け、力を罩めた足の指で、辷る甍を踏みしめ、四重目の家根[#「家根」はママ]を伝って行った。
 剣先まで来て振り仰ぎ、屋根棟外れを眺めたのは、鯱を見ようためだろう。しかし、大屋根の庇に蔽われ、肝心の鯱は見えなかった。
「こいつあ見えねえのが当然だ」
 呟くと一緒に香具師は、右手を懐中へグイと入れた。引き出した手に握られているのは、端に鉤の付いた髪編紐《かみひも》で「やっ」と叫ぶと宙へ投げた。夕陽で赤い空の面へ、スーッと放抛線が描かれたが、カチンと直ぐに音がした。鉤が大屋根の剣先へ、狙い違わず掛かったのである。
「よし」と云うと香具師はピーンと髪編紐を引いて見た。大丈夫だ! 切れはしない。
「よし」と最う一度呟くと、香具師は紐を手繰り出した。手繰るに連れて彼の体は、髪編紐の先へぶら下った。実に見事な手繰り振りで、そういう事には慣れているらしい。グングン大屋根の端まで上《の》したと、片手が端へかかる、グーッと体が海老反りになる、すると最う大屋根に立っていた。
 急斜面の天主の屋根、立って歩くことは出来そうもない。腹這いになった香具師は、南側の鯱へ目星を付け、膝頭でジリジリと寄って行った。
 その総高八尺三寸、その廻り六尺五寸、近付いて見れば今更らに鯱の見事さには驚かれる。
「さて」と云うと眼を爼《そば》め、胴の鱗を数え出した。
「うん、片側百十五枚、大鱗の大きさ七寸五分、小鱗の大きさ二寸五分。……よし、これには間違いが無い。……蛇腹の数十六枚。うむ、是にも間違いが無い。……次は耳だ、異変《かわり》が無ければよいが。……右耳一尺七寸五分、左の片耳一尺八寸……やれ有難い、間違いはない。……眉の長さ一尺六寸。うむ是にも間違いが無い。……さて両眼だが何どうだろう[#「何どうだろう」はママ]? [#底本では1字分のスペースがない]……や、有難い、定法通りだ。ちゃあんと八寸に出来ていらあ。……上下合わせて十六枚の歯よし是にも間違いが無い。……北側の鯱を調べてやろう」
 屋根棟を伝わって走って行った。
 鯱の背中へふん[#「ふん」に傍点]跨《またが》り、また香具師は調べ出した。
「いや有難え、変ったことも無い」
 ホッと安心したように、こう呟いた香具師は、さすがに疲労を感じたと見え、額の汗を押し拭い、トントンと胸を叩いたものである。それから城下を見下ろした。
「絶景だなあ、素晴しい[#「素晴しい」はママ]や」
 いかにも絶景に相違無かった。
 百万石の加賀の金沢、七十七万石の薩摩の鹿児島、六十二万石の奥州の仙台、大大名の城下町は、名古
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