町奉行が隠密となり、直々他領へ入り込むとは、曾て前例の無いことだ。これが普通の隠密なら、捕えて殺して了えば可いが、大岡越前守とあって見れば、そういう乱暴な手段も執れない。若松屋の番頭の立聞きに由れば、殿に謀叛の疑いがあり、御金蔵に貯えた黄金の額を主として調べに来たのだというから御金蔵の黄金を他所へ移しそれから逆に使者を遣わし、越前守を城中へ召し、夫れとなく御金蔵の内を見せ、安心させるのが可いだろう」
 年寄の意見は斯う決まって主君《との》へ言上することにした。
 この日宗春は奥御殿で、快い眠りに耽っていた。
 その傍にお半がいた。これも矢張り眠っていた。
 薄煙が部屋に立ち迷っていた。
 四辺に散らしてあるものは、眠薬の壺と吹管であった。部屋には最う一人人がいた。それは他ならぬ香具師であった。お伽衆だという所で、自由に奥御殿へ出入ることが出来た。彼一人だけ眼覚めていた。二人の寝姿を真面目に見守り、膝に手を置いて考えていた。
 襖の向うから声がした。
「お半の方様、お半の方様」取締りの老女の声であった。
「お半の方様はお休みで」こう香具師が代って答えた。
「おお、貴郎は香具師殿か。殿様はお居ででございましょうか?」
「へえへえお居ででございます。が、矢っ張りお休みで」
「直ぐにお起し下さいますよう」
「仲々お眼覚めなさいますまい」香具師は鳥渡嘲笑うように云った。
「よい夢の真最中一刻ぐらいは覚めますまい」
「それは何うも困りましたね。成瀬様が何事か急々に、言上致したいとか申しまして、只今おいででございます」
「成瀬様であろうと竹腰様であろうと、この夢ばかりは破れますまい。お待ちなさるようお伝え下され」此処で香具師はヘラヘラ笑った。

「が、それにしてもお前様は、どうしてそんな[#「そんな」に傍点]御寝所などで、何をしておいででございますな」老女の声は咎めるようであった。
「へえへえ私でございますかね、琥珀の夢、珊瑚の夢、極楽の夢、天国の夢、そういう夢の指南番、それを致して居りますので」
「何を莫迦な」と一言残し、老女の足音は向うへ消えた。香具師はペロリと舌を出した。
「これで仲々馬鹿でねえ奴さ」
 二人の夢は覚めなかった。二度ばかり老女が聞きに来た。
「お気の毒さま。まだお寝んね」こう云って香具師は追い返した。
 夕方二人は眼を覚ました。
「ああ綺麗な夢だった」だる[
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