あった。
そして系図には習慣《しきたり》として流儀の奥義が記《しる》されてあり、それを与えられた武芸者は流儀の本家家元となれる。
果然、信州は木曽山中の猟師、姓も氏《うじ》もない多右衛門は爾来《じらい》江戸に止どまって弓道師範となったのであった。
日置弾正を流祖とした日置流弓道は後世に至って、露滴《ろてき》派、道雪《どうせつ》派、花翁《かおう》派、雪荷《せっか》派、本心《ほんしん》派、道怡《どうたい》派の六派に別れ、いわゆる日置流六派として武家武術の表芸となり長く人々に学ばれたがこの六派の他に尚八迦流という一流があり武芸を好む町人や浪人達に喜ばれたがこの八迦流の流祖こそすなわち猟師多右衛門なのである。
それにしても、不思議な妖怪沙汰を起こし日置流系図を多右衛門に与え別に一派を立てさせたのはいったい何者であったろう?
それについて多右衛門はこんなことを云った。
「今こそ染め物店にはなっているが戦国時代にはあの辺に大きな館があったのだ。日置弾正様のお館がな。――で、亡魂が残っておられ、日置流の頽廃《たいはい》を嘆かせられ夜な夜な怪異を示されて勇士をお求めになられたのだ。そこへこの
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