た方が泰平無事ではござらぬかの」――紋太郎は小声で誘って見た。
「君子|危《あやう》きに近寄らずじゃ」
「とは云えこのまま帰っては弓師左衛門や忠蔵へ対してちと面目がござらぬではないか」主馬は煮《に》え切らずこんな事を云った。それから門へ近寄って何気なくトンと押して見た。すると門はゆらゆらと揺れギーという寂しい音を立てて内側へ自然と開いたのであった。
静寂を破る弦音
「や、門が開きましたな」
「これはこれは不用心至極」
三人の者は事の意外に胆《きも》を潰してこう呟《つぶや》いた。
「門が開いたを幸いに案内を乞い内《なか》へはいり様子を見ようではござらぬか」
主馬はこう云って二人を見た。
「よかろう。案内を乞うことにしよう」こう紋太郎はすぐ応じた。内記は少からず躊躇したがそれでもやがて決心して二人の朋輩の後を追った。
三人は玄関の前まで来た。
「頼む」と主馬が声を掛けたが誰も返辞をする者がない。家内は森然《しん》と静かである。
「深夜まことに恐縮ながら是非にご面会致したければどなたかご案内くだされい」
再び主馬は声を掛けたがやはり家内からは返辞がない。人のいない空屋のようで陰々として物凄い。三人はにわかに気味悪くなった。
とたんに、ヒェーッと絹を裂くような鋭い掛け声が奥の方から沈黙《しじま》を破って聞こえたかと思うと、シューッ空を切る矢音がして、すぐ小手返る弦《つる》の音がピシッと心地よく響き渡った。「あッ」と三人はそれを聞くとほとんど同時に叫びを上げたが、それは驚くのが理《もっとも》である。掛け声、矢走り、弦返《つるがえ》り、それが寸分の隙さえなく日置流《へきりゅう》射法の神髄にピタリと箝《は》まっているからである。
主馬が真っ先に逃げ出したのはよくよく驚いたのに相違ない。三人往来へ走り出るとホッと額の汗を拭った。
「我ら日置流の射法を学びここに十年を経申すがこれほど凄じい弓勢にはかつて逢ったことございませぬ」
「全く恐ろしい呼吸でござったのう」
「妖怪でござるよ。妖怪でござるよ」
三人が口々にこう云ったのは不思議な屋敷の門前から五町あまりも逃げのびた時で、三人の胸は早鐘のように尚この時も脈打《みゃくう》っていた。
翌日三人は打ち揃って改めてその屋敷まで行って見たが、そこにはそんな屋敷はなくて柏屋という染め物店が格子造りに紺の暖簾《のれん》を風にたなびかしているばかりであった。
この弓屋敷の不思議の噂は間もなく江戸中に拡がった。本所七不思議はさらに一つ「弓屋敷の矢声」の怪を加えて本所八不思議と云われるようになった。弓道自慢の幾人かの武士は自分こそ妖怪の本性をあばいて名を当世に揚げようと屋敷の玄関までやっては来たが、大概一矢で追い返されよほど剛胆な人間でも二筋の矢の放されるを聞いては、その掛け声その矢走りの世にも鋭く凄いのに怖気《おぞけ》を揮って逃げ帰った。
「ごめん」
とある日一人の男が柏屋の店を訪ずれた。年の頃は二十五、六、田舎者まる出しの仁態《じんてい》で言葉には信州の訛《なま》りがあった。
「へい、染め物でございますかね」
柏屋の手代はこう云いながら、季節は七月の夏だというに盲目縞《めくらじま》の袷《あわせ》を一着なし、風呂敷包みを引っ抱えた、陽焼けた皮膚に髯だらけの顔、ノッソリとした山男のようなそのお客様を見守った。
「いんね、そうじゃごぜえません。噂で聞けばお前《めえ》さんの所へ化物が出るということで。ひとつ俺《おい》らがその化物を退治してやろうと思いましてね」
「ああさようでございますか。それはどうも大変ご親切に」手代はおかしさを堪《こら》えながら、
「失礼ながらご身分は?」
「信州木曽の猟師《かりゅうど》でごわす」
「え、猟師《かりゅうど》でございますって?」
「ああ俺《おい》ら猟師だよ。一丁の弓で猪《しし》猿熊を射て取るのが商売でね。姓名の儀は多右衛門でごわす」
「へいさようでございますか。どうぞしばらくお待ちくだすって」
手代は奥へ飛んで行ったが引き違いに出て来たのは柏屋の主人の弥右衛門という老人であった。
弥右衛門は多右衛門の様子を見て思う事でもあると見えて丁寧に奥へ案内した。幽霊の噂が立って以来実際柏屋染め物店は一時に寂れてしまったので、たといどのような人間であろうと、その化物を見現わしてくれて、厭《いや》な噂を消してくれる人なら、喜んで接待しようというのが弥右衛門の今頃《このごろ》の心なのであった。
まず茶菓を出し酒肴を出し色々多右衛門をもてなし[#「もてなし」に傍点]た。多右衛門は別に辞退もせずさりとて卑《いや》しく諂《へつら》いもせず平気で飲みもし食いもしたがやがてゴロリと横になった。
「やれやれとんだご馳走になって俺ハアすっかり酔いましただ。どれ晩まで一休み
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