か、さては坂部の三十か……江戸の人達は唄にまで作り、恐れおびえているのになあ」
「お上の片手落ちも甚しいものさ」
緋鯉の兄貴と、釣鐘弥左衛門、にわかに調子を強めたが、
「それにしても俺たちには不思議でならねえ、唐犬の兄貴一統が水野の屋敷へ切り込んだ時、俺らは旅へ出ていたから、加わることも出来なかったが、兄貴はその時江戸にいたはずだ、それだのに一味に加わらずに、一人仲間から外れたのは、一体どういう訳だろうね? 他ならぬ兄貴のことだから、卑怯の結果とは思われねえが、俺らには訳がわからねえ」
本心を聞きたいというようにグッと弥左衛門眼を据えた。
「うむ、それか」と云ったものの藤兵衛はしばらくは物を云わない。
「やり損なうに相違ないと、俺らハッキリ睨んだからさ」
それから少し間を置いたが、
「相手がああいう相手だけに、一度で片づくと思っては早すぎる。一番手が失敗した場合、二番手の備えをしておかないとの」
「なるほど」と釣鐘弥左衛門、こいつを聞くと頷いた。
「それじゃア兄貴は二番手をもって任じ、長兵衛どんや唐犬の兄貴の、敵を討とうとするのだね?」
「とにかく憎いは旗本奴、わけても水野十郎左衛門、白柄組の一党だよ。この儘のさばら[#「のさばら」に傍点]せちゃア置かれねえ」
「ところで兄貴、その手段は?」
「ここにあるよ」と胸を打った。
「胸三寸、誰にも言わねえ」
「俺らにも明かせてくれねえのか」
気色ばむ弥左衛門を慰めるように、
「俺一人で出来る仕事なのさ、無駄なたくさんな殺生は俺らにとっちゃア好ましくない。だがな」と藤兵衛しんみり[#「しんみり」に傍点]となった、「もしも[#「もしも」に傍点]のことが俺にあったら、それ、お前とは縁の深い、あの浅草の鐘でもついて、回向というやつをやってくれ。そうしてなんだ俺が死んだら、いよいよ町奴は衰微するだろう、そこでお前だけは生きながらえて、町奴の意気をあげてくれ、こいつが何より肝心だ、それはそうと、しめっぽく[#「しめっぽく」に傍点]なった。さあさあこれから一杯飲もう」
5
藤兵衛は谷中に住んでいた。そこで谷中の藤兵衛とも云う。彼は金魚組の頭領であった。そこで緋鯉の藤兵衛とも云う。躯幹長大色白く、凜々たる雄風しかも美男、水色縮緬の緋鯉の刺繍《ぬいとり》、寛活伊達の衣裳を着、髪は撥髪《ばちびん》、金魚額、蝋鞘の長物落し差し洵《まこと》に立派な風采であった。
そうして彼は名門でもあった。その実姉に至っては、春日局《かすがのつぼね》に引き立てられ、四代将軍綱吉の乳母《めのと》、それになった矢島局であり、そういう縁故があるところから、町奉行以下の役人達も二目も三目も置いていた。但しそのためにそれを利用し、藤兵衛決して威張りはしない。覇気の中にも謙遜を保ち、大胆の中にも細心であった。
だが親分藩隨院長兵衛、水野十郎左衛門のために騙り討たれた。そればかりか唐犬権兵衛、夢の市郎兵衛、出尻《でっちり》清兵衛、小仏小兵衛、長兵衛部下の錚々たる子分が、復讐の一念懲りかたまり、水野屋敷へ切り込んだが、不幸にも失敗をした揚句、一同遠島に処せられても、徳川直参という所から、水野一派にはお咎めもなく、依然暴威を揮っているのが、勘にさわってならなかった。
「どうともして、水野に腹切らせ、白柄組を瓦解させ、一つには親分の恨みを晴らし、二つには兄弟分の怒りを宥め、三つには市民の不安を除き、旗本奴と町奴との長い争いを止めたいものだ」
これは日頃の念願であった。
ところがとうとうその念願が遂げられる機会がやって来た。
「旗本に楯つく町奴というもの、是非とも一度見たいものだ」
将軍綱吉が云い出したのである。
「それでは」と云ったのは松平伊豆守、かの有名な智慧伊豆であった。
「矢島局様実弟にあたる、谷中住居の藤兵衛という者、今江戸一の町奴とのこと。大奥に召すことに致しましょう」
「おおそうか、それはよかろう」
そこで藤兵衛召されることになった。
雀躍《こおどり》したのは藤兵衛である。
「ああ有難え、日頃の念願、それではいよいよ遂げられるか、将軍様を眼の前に据え、思うまんまを振舞ってやろう」
さてその藤兵衛だがその日の扮装《いでたち》、黒の紋付に麻上下、おとなしやかに作ったが、懐中《ふところ》に呑んだは九寸五分、それとなく妻子に別れを告げ、柳営大奥へ伺候した。
町人と云っても矢島局の実弟、立派な士分の扱いをもって丁寧に席を与えられたが、見れば正面には御簾があり、そこに将軍家が居るらしい。諸臣タラタラと居流れている。言上役は松平伊豆、面目身にあまる光栄である。
と、伊豆守声をかけた。
「まず聞きたいは町奴の意気、即座に簡単に答えるがよい」
「はっ」と云ったが緋鯉の藤兵衛、
「強きを挫き弱きを助ける! 町奴の意気に
前へ
次へ
全6ページ中4ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
国枝 史郎 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング