と優しく作ったのである。
「これはこれはお嬢様、よいお天気でございますなあ」こんな調子に話しかけた、親切らしい猫撫声である。
「はい」と云ったが吃驚《びっくり》して、民弥は老人の顔を見た。「よいお天気でございます」
「お寺参りでございますかな」こんなことを云いながら、老人は並んで歩き出した。
「あの、いいえ、人を尋《たず》ねて」
「おやおや左様でございましたか、どなたをお尋ねでございますな」
「はい、若いお侍様を」
「ほほう、成程、お侍様をな、で、どういうお方なので?」
 何となく老人は訊くのであるが、勿論心中ではよくないことを、きっと巧らんでいるのだろう。
「大事なお方なのでございますの」民弥は釣《つ》られて話して行く。
 平素の民弥なら迂闊《うかうか》と、こんな見知らぬ老人などと、話しなどするのではなかったが、今は心が茫然《ぼんやり》している。で、うかうかと話すのであった。
 お腹《なか》の減《へ》っている者は、決して食物を選ばない。水に溺れている者は一筋の藁さえ掴もうとする。民弥の心は手頼《たよ》りなかった。誰であろうとかまわない[#「かまわない」に傍点]、親切に話してくれさえしたら、その人に縋って助けて貰おう、そんなように思っているのであった。
「成程々々、大事なお方で。……何というお名前でございますかな?」
「森右近丸様と申します」
「おやおや左様でございましたか。それはまことに幸いで、そのお方ならこの老人が居場所を存じて居りますよ」
「まあ」と云ったが娘の民弥は、驚きもすれば喜びもした。
「それでは本当にお爺様には森右近丸様の居場所を、ご存じなされて居りますので?」
「はいはい存じて居りますとも。実はな、お嬢様、こういう訳で」

21[#「21」は縦中横]

 それからベラベラと喋舌《しゃべ》り出したが、云う迄もなく出鱈目らしい。
「いや全く右近丸様ときては、立派なお方でございますなあ。……へいへい私の親類なので、甥にあたるのでございますよ。ええと年は三十五で……え? 何ですって、違いますって? アッハッハッ、さようさよう、三十五になんかなるものですか。ええと数え年十九歳で。……え、何ですって? 違いますって? さようさよう大違いで、アッハッハッ、ごもっとも。二十三歳でございますよ。……非常な美男で、剣道も達者で、浪人の身分ではありますが。……え何ですって、違ったというので? さようさよう、大違いで、間違いますなあ、よく間違う! アッハッハッハッ、こう間違っても困る。……左様でございますともご家臣で、信長公のご家臣で。蘭丸《らんまる》様の兄様で。……オットいけないまた違ったか。従兄弟《いとこ》でございますよ、従兄弟々々々……ところで昨日でございますがな、午後から参ったのでございますよ。ハイハイ私の屋敷へな。……え、違うと仰有《おっしゃ》るので? いかさまいかさま、これも間違い。間違いに相違ありませんとも。昨日《きのう》は一日お嬢様のお家で、くらしたはずでございますからなあ。……実は先刻《さっき》方参りましたので。へいへい私の屋敷へな。で、只今も居りますので、そうして右近丸が申しました、貴女《あなた》に是非とも逢いたいとな。……ええと所でお嬢様、何と仰有いますな、お名前は? へい貴女のお名前なので? お菊さんかな? お京さんかな? ……何々民弥? 民弥さんというので? そうそう民弥さんに相違ない。……云っているのでございますよ。是非民弥さんに逢いたいとな。そこで私が来ましたんで、ハイハイ貴女をお迎いにな。……さあさあ急いで参りましょう。私の家へ! 私の家へ!」
 間違ったことばかり云っている。
 でもし民弥が冷静だったら、当然疑いを挿んだろう。ところが民弥は冷静ではなかった。心がとうから茫《ぼうっ》としていた。で老人の出鱈目が、出鱈目でないように思われた。
 そこで民弥は夢中のように、老人の腕へ縋ったが、
「お爺様! お爺様! お爺様! さあさあ連れて行って下さいまし! さあさあ、逢わせて下さいまし、右近丸様は大事なお方、お逢いしなければなりません! 逢いとうございます、逢いとうございます! どうぞ逢わせて下さいまし! 貴郎《あなた》のお家へ! 貴郎のお家へ! さあさあお連れ下さいまし!」
「うむ、しめた!」と云ったように、老人は凄く笑ったが、「合点《がってん》々々お連れしますとも! さあさあ急いで参りましょう。私の家は柏野で。そこにあるのでございますよ。少し遠いが元気を出し、走って行きましょう、走って行きましょう!」
 そこで二人は走り出した。
 往来の人が振り返る。さも不思議そうに二人を見る。一人は兇相の老人である。一人は無邪気な娘である、それが走って行くのである。不思議そうに見るのは当然だろう。
 だが民弥は夢中であった。人に見られようが笑われようが、心に掛けようとはしなかった。一刻も早く右近丸様に、逢いたい逢いたいと思うのであった。
 二人はズンズン走って行く。

22[#「22」は縦中横]

 ここは柏野の一画である。
 そこに一軒の家があった。
 見掛けは極めて陰気ではあったが内は反対に陽気であった。
 その陽気な奥の部屋に、十五六人の男がいた。
 歌をうたっている者、酒を飲んでいる者、詈っている者、議論している者、取っ組み合っている者もある。いずれも兇相の連中である。その風俗も様々である。神主風の者もある。商人風の者もある。坊主風の者もある。武士姿をした者もあれば、香具師《やし》風をした者もある。老人もいれば若者もいる。女も二三人雑っている。
 ガヤガヤみんな喋舌《しゃべ》っている。
「近来は思わしい仕事がない」
「こう不景気では仕方がない」
「地方へ行かなければならないだろう。都に仕事がないのだから」
「今日も戦、昨日《きのう》も戦、地方へ行くと戦ばかりだ、若武者の鎧を引っ剥いでも、相当の儲けはあるだろう」
「逃げまどう落城の女どもを引っ攫うのもいいだろう」
 突然一人が歌い出した。
[#ここから3字下げ]
※[#歌記号、1−3−28]人買船の恐ろしや
[#ここで字下げ終わり]
 するともう一人が後を続けた。
[#ここから3字下げ]
※[#歌記号、1−3−28]どうせ、売らるる身じゃほどに
[#ここで字下げ終わり]
 するともう一人が後を続けた。
[#ここから3字下げ]
※[#歌記号、1−3−28]しずかに漕ぎやれ船頭殿
[#ここで字下げ終わり]
 人買船の歌なのである。
 とその時奥の部屋から女の泣声が聞こえてきた。
「まだあの女は泣いているわい」
「どうせ売られて行く女だ、思うさま勝手に泣くがいい」
 昼だというのに部屋の隅に、幾本か紙燭《ししょく》が燈《とも》されている。話声を戸外へ洩らすまいと、雨戸を閉ざしているからである。壁には影法師が映っている。床の上では狼藉《ろうぜき》とした、銚子や皿小鉢が光っている。
 綺麗な娘を攫って来て、遠い他国へ売り渡す、恐ろしい恐ろしい人買共の、此処は巣であり会所なのであった。
 そうしてここにいる人間どもは、その恐ろしい人買なのであった。
 と、部屋の片隅に、壁へ背中をもたせかけ、考え込んでいる少年があった。刳袴《くくりばかま》に袖無《そでなし》を着、鬱金《うこん》の頭巾を冠っている。他でもない猿若《さるわか》である。悪人には悪人の交際《まじわり》があり、人買の一味と香具師の一味とは、以前《まえ》から交際を結んでいた。で猿若も前々から、よくここへは遊びに来た。
 だがどうしたのだろう猿若少年、今日はいつも程に元気がない。深い考えに沈んでいる。
「おい猿若よ、はしゃげはしゃげ!」
 こう一人が声をかけた。片腕のない小男であった。勘八という人買であった。
「それどころじゃアありませんて」猿若の声は物憂《ものう》そうだ。
「親方の行方《ゆくえ》が知れないんで」
「へえ、そいつは不思議だね」もう一人の人買が声をかけた。
 片眼が潰れた大男で、その綽名を一ツ目と云い、この仲間での小頭であった。「玄女《げんじょ》さんが居ないというのかい?」
「玄女姐さんも居なければ、猪右衛門《ししえもん》親方も行方不明なのさ」いよいよ猿若は物憂そうである。
「おかしいなあ、どうしたというのだ?」こう訊いたのは勘八である。
「どうして行方が知れないのか、俺らには訳がわからないよ。二人ながら昨日《きのう》からいないのさ」
「親方紛失とは気の毒だなあ」こう云ったのは一ツ目である。「どうだ猿若香具師なんか止めて俺達の仲間へ入らないか」
「真平ご免だ、厭なことだ」猿若は早速|刎《は》ね飛《と》ばしてしまった。
「若い女を攫って来て、遠い他国へ売るような、殺生な商売は嫌いだよ」
「何だ何だこのチビ公、利いたようなことを云っているぜ。そういうお前達の商売だって、立派なものではないではないか」
「せいぜい盗みをするぐらいさ」
「それ、それ、それ、そいつがいけない」
「娘なんかは盗まないよ」
「金か品物を盗むんだろう」
「人形、人形、綺麗な人形!」
「え?」と一ツ目は訊き返した。
「人形を盗もうとしたってことさ」
「アッハッハッ、馬鹿にしているなあ、一人前の口は利くようだが、やっぱり子供は争われない、人形を盗もうとは可愛らしいや」
 一ツ目が大声で笑ったので、人買共も一斉に、面白そうに笑い出した。
 と、その笑声の終えない中《うち》に、門口の戸が外から開き、二人の人間が入って来た。
 先に立ったは老人であり、後に続いたは娘であった。
 それと見て取るや人買共は、一度にタラタラと辞儀をしたが、「これはお頭、お帰りなさいまし」こう云ったのは一ツ目であった。
 続いて勘八が声をかけた。「素敵な玉でございますなあ」
「ざっと[#「ざっと」に傍点]した所がこんなものさ」老人は凄じく笑ったが、娘の方を振り返った。「何とか云ったね、民弥さんか! 大概は見当が付いたろうが、ここに居るのは人買だ。そうしてここは人買宿、そうして私は人買の頭、柏野の里の桐兵衛《きりべえ》だよ。……もう、いけない観念おし、どんなに泣こうが喚こうが、ここへ一旦来たからには、一足も外へは出られない。と云って殺すというのではない。当分大事に飼って置き、行儀作法を教えてから、遠国の大名や金持や、廓の主人へ売り渡す。……ナーニ大して心配はいらない。ちょっと心さえ入れ変えたら、案外立身出世もする。だからよ、万端、委《ま》かして置きな。……オイ野郎共!」と手下を見た、「二階へ連れて行くがいい、手に余るほどあばれ[#「あばれ」に傍点]たら、体に傷の付かぬよう、革の鞭で手足を引っ叩け!」
「合点《がってん》」と云って立ち上ったは、例の小男の勘八であった。
「さあ娘ッ子、二階へ行こう」
 むっと民弥の手を取ったが、その結果は意外であった。あべこべに民弥に腕を取られ、グッと逆手に返されたのである。
「さてはお前達は悪人だね!」
 いわゆる裂帛の声である! 勘八を向うへ突き倒し、その手を帯へ差し入れたが、抜いて握ったは嗜《たしな》みの懐刀、振り冠ると凜々しく叱咤した。
「そうとも知らず連れ込まれたは、妾《わたし》の油断には相違ないが、ムザムザ手籠に逢うものか! 武士の娘だ、あなどってはいけない!」
 壁を背後《うしろ》にピッタリと背負《しょ》い、褄《つま》を片手にキリキリと取り上げ、振り冠った懐刀に波を打たせ、荒くれ男の十数人を、睨んだ様子というものは、若くて美しい娘だけに、凄くもあれば立派でもあった。
 驚いたのは人買共である。

23[#「23」は縦中横]

 一整《いっせい》に立ち上ったが呶鳴り出した。
「油断をするな、大変な娘だ!」
「一度にかかって手捕りにしろ!」
「相当武芸も出来るらしい。甘く見込んで怪我するな」
 そこで一同ダラダラと並び、隙を狙って飛びかかろうと、民弥の様子をうかがった。
 飛び込んで来い! 叩っ切る! 敵《かな》わぬまでも防いで見せる! そうして一方の血路《けつろ》をひらき、この屋敷から逃げて見せる! ――民弥は民
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