しい、森林がある、夜鳥の羽搏《はばた》き、風の音、光景次第に凄くなった。
四人が四人とも疲労した。だが逃げなければならなかった。だが追わなければならなかった。
ちょうどこの頃のことである、鹿苑院《ろくおんいん》金閣寺、そこから離れた森林の中に、一人の女が坐っていた。
18[#「18」は縦中横]
地上に鏡が置いてある。坐っている女が覗いている。月光が鏡を照らしている。魚の横腹を思わせるような、仄かな煙った光芒が、その鏡から射している。
「いよいよ時期が近付いた。妾《わたし》には解《わか》る。妾には解る。唐寺の謎を孕んでいる、ある何物かが手許《てもと》へ来る。向こうから来るのだ、飛び込んで! こっちで呼びもしないのに、向こうから来るのだ、飛び込んで! 捕らえなければならない、捕らえなければならない!」
独り言を云っている。だがどうしてその女には、そういうことが解るのだろう? そうして一体この女は、どういう身分の女なのだろう?
年の頃は二十歳《はたち》ぐらい、頭髪《かみ》を束《つか》ねて背中へ垂らし、白の衣裳を纏っている。すなわち巫女の姿である。
いつぞや京都二条通りで、時世を諷し、信長を譏り、森右近丸を飜弄した、あの時の巫女とそっくり[#「そっくり」に傍点]である。そっくり[#「そっくり」に傍点]どころかその女なのである。
だがどうしてその女が、こんな寂しい森の奥に、一人で住《す》んでいるのだろう? まったく寂しい森である。巨木が矗々《すくすく》と聳えている。枝葉がこんもり[#「こんもり」に傍点]と繁っている。非常に大きな苔むした岩や、自然に倒れた腐木《くちき》などが、森のあちこちに転がっている。
女の坐っている後方にあたって、一点の燈火《ともしび》がともっている。ぼっと[#「ぼっと」に傍点]その辺りが明るんで見える。何でもなかった、燈明《とうみょう》なのであった。そこに一|宇《う》の社があり、そこの神殿に燈されている、それは一基の燈明なのであった。
何という古風な社だろう! その様式は神明造《しんめいづくり》、千木《ちぎ》が左右に付いている。正面中央に階段がある。その階段を蔽うようにして、檜皮葺《ひはだぶき》の家根《やね》が下っている。すなわち平入《ひらいり》の様式である。社の大いさ三間二面、廻廊があって勾欄《こうらん》が付き、床が高く上っている我等が祖先大和民族の、最古の様式の社なのである。
社に添って家がある。おおかた似たような様式である。やはり階段がついている。その正面に扉がある。出入口に相違ない。勾欄を巡らした廻廊が、家の周囲《まわり》を囲繞《とりま》いている。これは恐らく社務所なのだろう。
月がそれらを照らしている。で、一切の建物が、紗布《しゃぎぬ》に包まれているようである。社を中心に空地がある。その空地の一所に、女は坐っているのであった。
と、女は背後《うしろ》を向き、社務所へ向かって声をかけた。
「乳母《ばあや》々々、ちょっとおいで」
「はい御姫様」と云う声がした。社務所の中からしたのである。と、社務所の戸が開いて、一つの人影が現われた。廻廊を渡り階段を下り、月光の中へ現われたのを見れば、白髪を結んで肩へ垂らした、六十余りの老女であった。質素なみなり[#「みなり」に傍点]はしているが、上品で柔和で慈悲深そうな容貌、立派な素性を現わしている。
「宵も更けましてございます、もうお休みなさりませ」云い云い老女は近寄ったが「これはこれは唐姫《からひめ》様、またお占いでございますか」
並んで鏡を覗き込んだ。
「ね」と巫女は――唐姫は、またもや鏡に見入ったが、「ね、人影がしかも四人、私達の住居《すまい》の処女造庭境へ、あんなにも走って来るではないか。荒らさせてはならない、入らせてはならない、追い払わなければならないのだが、先に立って来る二人の男女、あれだけは是非とも捕らえることにしよう」
「まあまあ左様でございますか」こうは云ったが老女には、鏡に映っているという、人間の姿など解《わか》らないと見え、不安らしく白髪の首を振った。「お姫様には神通力、お鏡を通して浮世の相を、ご覧になることが出来ましょうが、この浮木《うきぎ》はほんの凡人、何にも見えませんでございます。ほんとにそんな人達が、走って来るのでございましょうか?」
「ああそうとも走って来るよ、一人は若武士、一人は娘、後の二人は香具師らしいよ。卑しい服装《みなり》をしているからね」
じっと鏡に見入ったが、尚も唐姫は云い続けた。
「それも普通の人達ではないよ、私達|一同《みんな》が以前《まえまえ》から手に入れようと望んでいた、唐寺の謎を解き明かした、研究材料を持っている、そういう好都合の人達なのだよ」尚も熱心に見入ったが、「もう北野も通り過ぎた、大将軍まで走って来た、もう直ぐにも小北山へ来る。……ああもう[#「もう」に傍点]小北山も通り過ぎた、いよいよ平野へやって来た。……衣笠山! 衣笠山! 衣笠山の裾まで来た!」
ほんとにどうしてそんなこと[#「そんなこと」に傍点]が、この唐姫には解るのだろう? 月光に反射して朦朧と、鏡は光っているばかりである。そんな人影など映《うつ》っていない。
それにもかかわらず唐姫にだけに、そういうことが解るのなら、唐姫という女には、特別に違った感覚が、備わっているものと見なければならない。
と、唐姫は立ち上った。
「もう間もなく遣って来よう! 私達の住居《すまい》の秘密境、処女造庭境の入口へ! 乳母!」と云ったが威厳がある。「お呼びお呼び、家来達を!」
「はい」と云うと老女の浮木は逞しい声で呼ばわった。「姫君お呼びでございますぞ! 方々お集りなさるよう!」
声に応じて数十人の人影が森の四方から現われた。刳袴《くくりばかま》に一刀を帯び、織人|烏帽子《えぼし》を額へ載せ、黒の頭巾で顔を包んだ、異形の風采ではあったけれど、これこの時代の庭師なのであった。
唐姫の前方数間の手前で、膝折敷いて下坐をした。慇懃を極めた態度である。
唐姫はスッと見廻したが、
「銅兵衛《どうべえ》、銅兵衛」と声をかけた。
「は」と答えると一人の庭師が坐ったままで辞儀をした。
「大儀ではあるが衆を率い、其方《そち》造庭境の入口へ参り、潜入者を堅く防ぐよう。……四郎太、四郎太!」と声をかけた。
「は」と答えたが一人の庭師が同じく坐ったまま一礼した。
「大儀ではあるが衆を率い、同じく造庭境の入口へ参り、香具師風の男女をひっ捕らえ、ここまで連れて参るよう」
「かしこまりましてございます」こう云ったのは銅兵衛《どうべえ》である。ヌッと立ったが仲間を見た。「いざ方々、おつづき下され!」
「では某《それがし》も」と四郎太も同じく仲間を見廻したが「拙者におつづきなさるよう」
二派に別れた数十人の庭師、スタスタと歩くと森へ入り、すぐに姿を隠したが、あたかもこの頃猪右衛門と玄女が右近丸と民弥に追いかけられ、衣笠山の坂道を、上へ上へと上っていた。
19[#「19」は縦中横]
一際こんもり[#「こんもり」に傍点]した森林が、行手にあたって聳えている。ちょうどその辺りまで来た時である。傍らの灌木の茂みを抜き、ガラガラと何物か投げ出された。
「あッ」と叫んだは猪右衛門、でもんどり[#「もんどり」に傍点]打って転がったが、鎖で足を巻かれている。
同時に叫んだは玄女である。同じくドッタリ倒れたが、是も鎖で巻かれている。
「先ずは捕った」という声がして、灌木の陰から現われたのは、六七人の庭師であった。
「有無を云わすな、猿轡をかけろ、それから担いで引き上げろ!」一人の庭師が囁いたが、これ他ならぬ四郎太であった。
※[#「足+宛」、第3水準1−92−36]《もが》く玄女と猪右衛門を担いで庭師の去った後は、月光が木の葉を照すばかり、沈々《ちんちん》として静かである。が、次の瞬間には、驚くべき事件が行なわれた。と云うのは玄女と猪右衛門を、追って来た民弥と右近丸が、ちょうどここまで辿りついた時、荒々しい男の叫び声が、こう聞こえてきたからである。
「帰れ帰れ、巷の者共、穢してはならぬよ、処女造庭境を! そこから一歩踏み込んだが最後、迷路八達岐路縦横、再び人里へは出られぬぞよ!」
続いてドッと笑う声が天狗倒しの風のように、物凄じく聞こえてきた。「おっ」と云ったは右近丸で、ピッタリ足を止めたが、声のした方へ眼をやった。
大森林が聳えている。月光もその中へは射し込まない。宏大な城の鉄壁のように、ただ黒々と聳えている。
気強《きじょう》とは云っても女である、民弥は思わず身顫いをしたが、「右近丸様!」と寄り添った。「妖怪《もののけ》などではございますまいか」「なんの!」と右近丸は一笑した。「妖怪ではござらぬ、人間でござる。思いあたることがございます! 不思議な巫女を頭とした、奇怪な庭師の群でござる。かつてこの場でそれ等の者と、邂逅《いきあ》ったことがございます。詳しいことはお後で申す。せっかくここ迄追い詰めて来て、猪右衛門と玄女を逃がしては、これ迄の苦心も無になります! 進む以外に法はない! いざ民弥殿手を取り合い!」
恐れぬ二人、右近丸と民弥は、サーッと森の方へ駈け上った。
「汝等《おのれら》来るか!」と物凄い声がふたたび森林から聞こえたが、すぐにバラバラバラと飛礫《つぶて》が雨のように降って来た。
だが恐れない二人であった。サーッと上へ駈け上る。
と、一つの辻へ出た。森林の中に八本の道が、全く同じ形をとり、八方へ延びているのである。
と、一方から声がした。「こっちだこっちだ、こっちへ来い!」
そこで二人はひた走った。とまた一方から声がした。
「こっちだこっちだ、こっちへ来い!」
そこで二人は方向《むき》を変え、声のする方へひた[#「ひた」に傍点]走った。
とまた一方から声がした。「こっちだこっちだ、こっちへ来い!」
そこで二人は方向を変え、声のする方へひた[#「ひた」に傍点]走った。
すると今度は八方から、嘲ける声が聞えてきた。「こっちだこっちだ、こっちだこっちだ!」
怒りを発した右近丸は今は平素の思慮も忘れ、ひたむきに一本の道を辿り、サーッばかり[#「サーッばかり」はママ]にひた走ったが、ハッとばかりに気が付いて立止まって背後《うしろ》を振り返ったが、「南無三宝! 民弥殿が見えぬ」
――民弥とはぐれて[#「はぐれて」に傍点]しまったのである。
さてその翌日のことである、一人の女が物思わしそうに、京都の町を彷徨《さまよ》っていた。
20[#「20」は縦中横]
ほかでもない民弥《たみや》である。
どうしてさまよっているのだろう?
右近丸《うこんまる》を探しているのであった。
それは昨夜《ゆうべ》のことであったが、洛外北山の山の中で、不思議な迷路へ迷い込み、気が付いた時には右近丸の姿は、どこへ行ったものか見えなかった。で苦心して道を辿り、京都の町へ帰って来て、自分の家へ戻ったが、右近丸のことが気にかかってならない。
が、ああいう親切なお方だ、今日は訪ねて下さるだろうと、心待ちに待っていたのであったが、今迄待っても姿を見せない。そこで目当てはなかったが、とにかく町へ出てお探ししてみようと、今彷徨っているのであった。
ここは室町の通りである。午後の日が華やかに射している。道も明るく、家々も明るく、歩いている人も明るかったが、民弥の心は暗かった。
全く宛がないのであった。
どこへ行ってよいか解《わか》らないのである。
まるで放心したように、歩く足さえ力なく、ただフラフラと歩いて行く。
先刻《さっき》から民弥のそういう姿を、狙うように見ている男があった。
年の頃は六十前後、半白《はんぱく》の頭髪《かみのけ》、赭ら顔、腰を曲げて杖を突いているが、ほんとは腰など曲がっていないらしい。鋭い眼、険しい鼻、兇悪な人相の持主である。
それが民弥へ話しかけた。
が、話しかけたその瞬間、老人の顔は優しくなった。故意《わざ》
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