れている。とはいえ命がけの場合である。いつもの二倍も走ることが出来る。
 一所懸命走って行く。走りながら猿若は喋舌《しゃべ》るのである。
「ねえ民弥さん民弥さん、俺らを疑っちゃアいけないよ。安心して俺らに委《まか》せるがいい。もっとも俺らも悪いことをした。人形を盗もうとしたんだからなあ。もっともそいつは失敗したが。……ええとそれからもう一つ、もっとよくないこともした。と云うのは民弥さんのお父《とう》さんを……どうもこいつだけは云えないなあ。あんまり酷いことをしたんだからなあ。……だってそれだって本心からじゃアない。みんな親方に云い付けられたんだ。そりゃア悪事には相違ないが、だって親方の云い付けなら、厭だと云うことは出来ないからなあ。……オヤオヤ足音が近くなったぞ! どれどれこの辺りで振り返ってみよう……あッいけない追い逼って来た。ナーニ大丈夫だ、逃げ通してみせる。一町とは逼っていないんだからなア。……そりゃア俺らは善人ではない。が、今では善人だよ。悪戯《いたずら》小僧には相違ないが、だって今ではいい子供だ。だからよ民弥さん堪忍しておくれよ。ね、ね、ね、昔の罪はね! ……そりゃアそうとどうもいけない。だんだん足音が近くなって来る」
 民弥は無言で走って行く。民弥には全く不思議であった。
 何が何だか解《わか》らなかった。猿若というこの小供が、何故自分を助けたのか? そうしてどうしてこの小供が、自分の名などを知っているのか? いやいや決してそればかりではない、逝くなった父の弁才坊のことや、そうして人形のことなどを、どうして口へ出すのだろう? ――何も彼も民弥には解らなかった。だがただ一つ解っていることがあった。それは自分のあぶない所を、助けてくれたということである。で民弥は心から、有難く思ってはいるのであったが、口へ出しては云わなかった。と云うのはうっかり声を出して、そのため呼吸《いき》でも乱れたら、そのまま倒れてしまうだろうと――こういう不安があったからである。
 で、黙ったままひた走る。
 だが精力には限りがある。だんだん二人は疲労《つかれ》てきた。足の運びも遅くなり、胸が苦しく呼吸が逸《はず》む。
「ああもう妾《わたし》は走れない」
 民弥がこう云って足を止めた時、人買の追手が追い逼った。
 すぐに民弥と猿若とを、グルグルと包囲したのである。
「これ」と喚《わめ》いて進み出たのは、人買の頭の桐兵衛であった。
「民弥、猿若、もう駄目だ! 穏《おとなし》く従いて来るがいい。アッハッハハ飛んでもない奴等だ、そんな小供や小娘に、裏掻かれるような俺達なら、とうの昔に縛られている……さあさあ帰れ従いて来い。……民弥にはおりよく買手が付いた。売るからその意《つもり》でいるがいい、……ところでチビの猿若だが、呆れた真似をしおったなあ。香具師と人買とは仲間のようなものだ。その仲間を裏切ってよ、仕事の邪魔をやるなんて、交際《つきあい》を知らねえにも程がある。そういう悪い小倅には、それだけの仕置をしなけりゃアならねえ。佐渡か沖の島か遠い所へ、こいつも小僕《こもの》として売ってやる。……さあお前達!」と云いながら、手下の人買を見廻したが、「こいつら二人を引っ担いで行け!」
「さあ来やアがれ!」と五六人の人買が民弥と猿若とへ飛びかかった。
「何だい何だい悪者め!」こう呶鳴《どな》ったのは猿若である。
「来やがれ来やがれ、叩っ切って見せる」
 そこで懐刀を振り廻したが、疲労てはいるし敵は大勢、到底勝目はなさそうであった。
 民弥に至っては尚更である。立っているさえ苦しい程に、心も休も疲労切っていた。
「何人《どなた》かお助け下さいまし!」
 救いの声を立てながら、ヒョロヒョロ逃げ廻るばかりである。
 こうして民弥と猿若とは、せっかくここ迄は逃げて来たが、またもや人買の手にかかり、連れ戻されなければならなかった。
 だがその時|松火《たいまつ》の燈《ひ》が、手近の森陰から現われて、五人の人影が足を早め、近づいて来たのは何者であろう?
 見て取ったのは民弥である。追い廻す人買を突きのけて、一散にそっちへ走り出した。
「民弥めが逃げるぞ、追っかけろ!」
 人買が後を追っかける。

27[#「27」は縦中横]

 しかしその時には娘の民弥は、松火をかかげた一団の中へ、身を躍らせて飛び込んでいた。
「これは娘ごどうなされた」
 こう云いながら見守ったのは、一人の立派な老女であった。他でもない浮木《うきぎ》である。そうして現われたこの一団こそ、例の庭師の一群であった。
「はい」と云うと娘の民弥は、クタクタと土へ崩折れたが、「妾《わたし》は京の片隅《かたほとり》に住む民弥と申す者にござります。人買の手にかかりまして……」
「なに、民弥? ほほう左様か、これは幸、よい
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