せます」
「どうやらそういう栄華の日が、すぐ間近く迫ったようで」
「結構なことでございます」
「これまでは苦労を致しました」
「ほんとにお気の毒でございました」
「いえいえ私《わたし》より民弥さんの方が、一層お気の毒でございました」
「何の何のどう致しまして、弁才坊様あなたの方が、一層ご苦労なさいました」
「苦は楽の種、苦は楽の種、アッハハハ楽になったら、この三年間の苦しみが、笑い話になりましょう」
「そうしたいものでございます」
「きっとなります。きっとなります」
「お父様!」とここで娘の民弥は俄《にわか》に調子を改めたが、四辺《あたり》を憚った鋭い声で「遂げられたのでございましょうか? 年月重ねられたご研究が?」
「うむ」とこれも弁才坊、がぜん態度を一変したが「民弥、遂げたぞ、ようやくのことで!」
「で、その旨信長公へ?」
「うむ、昨日《きのう》云ってやった!」
「では追っつけお使者が参り?」
「そうだ、この私《わし》の研究材料をお買い上げ下さるに相違ない」
「ああそうなったら私達は……」
「昔の身分に返《かえ》れるのだ」
ここで親子は沈黙し、その眼と眼とを見合せた。
まだ梵鐘が鳴っている。
讃美歌の声も聞こえている。
庭の桜が夕風に連れ、ホロホロホロホロと散ってくる。
ヌッと立った弁才坊は、「民弥!」とじっと[#「じっと」に傍点]娘を見た。「秘密の一端明かせてやろう、部屋へおいで、来るがよい」
縁《えん》を上って行く後から、従《つ》いて行ったのは娘の民弥で、二人家の内へ隠《かく》れた時、老桜の陰からスルスルと忍び出た一人の人物があった。
5
人物と云っても少年である。年の頃は、十四五歳、刳袴《くくりばかま》に袖無を着、手に永々と糸を付けた幾個《いくつ》かの風船を持っている。狡猾らしい顔付である。だが動作は敏捷である。辻に立って風船を売り、生活《くらし》を立てている少年|商人《あきゅうど》、だがそれにしても何のために、こっそり弁才坊の屋敷などへ、人目を憚り忍び込んだのだろう?
「うむ、あそこに窓がある、あそこから様子を見てやろう」
呟《つぶや》くと木立を縫いながら、屋敷の横手に付いている小窓の下へ走り寄った。人差指へ唾を付け、窓の障子へ押え付けたのは、小穴を開ける為なのだろう。窓が高いので覗きにくい。
「困ったなア困ったなア」
こんなことを
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