しかった。芝居、見世物の小屋掛けからは、稽古囃しが聞こえて来た。
 横へ外《そ》れると半太夫茶屋で、ヒラリと渋染めの暖簾《のれん》を潜った。
「おやお色さん、早々と」女将《おかみ》が驚いて顔を長くした。眉を落とした中年増《ちゅうどしま》唇から真っ白い歯を見せた。
「さあお通り。……後からだろうね?」
 ヒョイと母指《おやゆび》を出して見せた。
「私今日は嬉しいのよ」お色はトンと店へ上がった。
「そうだろうね。嬉しそうだよ」
「うん[#「うん」に傍点]とご馳走を食べるよ」
「家《うち》の肴で間に合うかしら」
「そうして今日は三味線をひくわ」
「一の糸でも切るがいいよ。身受けされるっていうじゃあないか」
「その身受けが助かったのよ」
 いつもの部屋へ通って行った。ちんまり[#「ちんまり」に傍点]と坐って考え込んだ。
「私あの人を嘗《な》め殺してやるわ」
 恐ろしいことを考え出した。
「逢い戻り! いいわねえ」――いいことばかりが考えられた。「初めてあの[#「あの」に傍点]人と逢うようだわ」自分で自分の胸を抱いた。ちょうどあの[#「あの」に傍点]人に抱かれたように。「だが何んだか心配だわ」今度は少し心配になった。「あの人何んておっしゃるだろう」これはちょっと問題であった。「のっけに私はこういうわ。もういいのよ。済んだのよ。お妾《めかけ》に行かなくってもいいのだわ」するとあの[#「あの」に傍点]人おっしゃるかも知れない。「お色、大変気の毒だが、おれには他に情婦《おんな》が出来たよ」……厭だわねえ、困っちまうわ。彼女は本当に困ったように部屋の中をウロウロ見た。「おやこの部屋は四畳半だわ」毎々通る部屋だのに、彼女は初めて気が附いたらしい。「ああでも[#「ああでも」に傍点]ないと四畳半! いいわねえ。嬉しいわ」嬉しい方へ考えることにした。
「でも随分待たせるわねえ」
 まだ十分しか待たないのに。
 床に海棠《かいどう》がいけてあった。春山の半折《はんせつ》が懸かっていた。残鶯《ざんおう》の啼音《なきね》が聞こえて来た。次の部屋で足音がした。
「いらっしゃったか、やっとのこと」彼女は急いで居住居を直した。だが足音は引っ返した。
「莫迦にしているよ。人違いだわ」彼女はだんだん不機嫌になった。
 長いこと待たなければならなかった。女中が茶を淹《い》れて持って来た。
 でもとうとうやって来た。弓之助でなくて喜介であった。
「どうもお色さんいけません。昨日お出かけになったまま、今日まだお帰りにならないそうで」
 喜介の報告《しらせ》はこうであった。お色は一時に気抜けした。じっ[#「じっ」に傍点]と首をうな[#「うな」に傍点]垂れた。


    両国橋の乞食の群

 女将《おかみ》が声を掛けたのに、ろくろく返事をしようともせず、お色はフラリと茶屋を出た。同じ道を帰って行った。
「案じた通りだ、出来たんだわ、ええそうよ、ほかに女が」まず彼女はこう思った。「そういうものだわ。男というものは」別れ話を持ち出したのが、彼女自身だということを、彼女はここで忘れていた。
「何んだか眼の前が真っ暗になったわ」両国橋へ差しかかった。橋の欄干へ身をもたせた。「河なものかまるで溜《ため》だわ……!」隅田川の風景も、もう彼女には他人であった。「きっと河は深いんだろうねえ」ゾッとするようなことを考えた。「身を投げたらどうだろう?」死んでからのことが考えられた。「あの人泣いてくれるかしら?」決して泣くまいと決めてしまった。「では随分つまらないわねえ」手頼《たよ》りなくてならなかった。
「ドボーンと妾《わたし》が身を投げたら、誰か助けてくれるかしら。そうよ今は昼だから。助けてくれたその人が、あの方だったらいいのにねえ」
 ダラリと袖を欄干へ垂らし、ぼんやり[#「ぼんやり」に傍点]河面《かわも》を眺めやった。やはり都鳥が浮かんでいた。やはり舟がとおっていた。皆々他人であった。急に眼頭《めがしら》がむず[#「むず」に傍点]痒《がゆ》くなった。眼尻がにわかに熱を持って来た。ボッと両の眼が霞んで来た。瞳へ紗《しゃ》でも張られたようであった。家々の形がひん[#「ひん」に傍点]曲がって見えた。見える物がみんな遠く見えた。そうしてみんな[#「みんな」に傍点][#「そうしてみんな[#「みんな」に傍点]」は底本では「そうしてみん[#「てみん」に傍点]な」]濡れて見えた。
 涙を透して見る時は、すべてそんなように見えるものであった。
 体の筋でも抜かれたように、グンニャリとした歩き方で、お色は橋を向こうへ越した。すぐ人波に渦《ま》き込まれた。
 お色の倚《よ》っていた欄干から、二間ほど離れた一所《ひとところ》に、五、六人の乞食《こじき》が集《たか》っていた。往来の人の袖に縋り、憐愍《あわれみ》を乞
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