懲りずにまたも近寄りましたは、何より幸いにございます。今度こそ逃がさず追い詰めて、息の根を止めるでございましょう」
 狂信者の群を見廻したが、
「向こうへ逃げて行くあの男こそ、我々にとっては無二の敵、教法を妨げる法敵でござる。追い付いて討っておとりなされ」
 狂信者の群が後を追う。
 背後《うしろ》を振り返った岡引の松吉は、
「いけないいけない追っかけて来る。いよいよ今朝方と同じだ。さあてどっちへ逃げたものだ。まさかにもう一度|扇女《せんじょ》さんの家へ、ころがり込むことも出来ないだろう。一体ここはどこなんだろう?」
 霊岸島の一ノ橋附近で、穢い小家が塊まっている。火事の光でポッと明るく、立騒いでいる人の姿が、影絵のように明暗して見える。
「火事だ火事だ!」
「ぶちこわしだ!」
「さあ押し出せ!」
「ぶったくれ!」
 などという声々が聞こえてくる。
 軒に倒れている人間がある。飢えた行路人《ゆきだおれ》に相違ない。家の中からけたたましい、赤子の泣き声が聞こえてくる。乳の足りない赤子なのであろう。
 そこを走って行く松吉である。
 と、右へ曲がろうとした。するとそっちから叫び声がした。
「こっちへ来るぞ打って取れ!」
 即ち狂信者の連中が、三方四方に組を分け、包囲するように追って来たが、その一組がその方角から、こっちへ走って来るのであった。
「いけない!」と喚くと岡引の松吉は、身を飜えすと左へ曲がった。
 なおも、ひた走るひた走る。
 するとその行手からこっちを目掛け、狂信者の群が走って来た。
「いけない」と露路へ走り込んだ。
「どうぞお助け下さいまし」
 露路に倒れていた一人の老婆が、腕を延ばすと縋り付こうとした。
「お粥なと一口下さりませ」
「こっちこそ助けて貰いたいよ」
 振り切って松吉はひた走る。
 出た所が川口町で、群集が飛び廻り馳せ廻っている。
 大火になると思ったのだろう家財を運んでいる者がある。
 ぶちこわし[#「ぶちこわし」に傍点]が恐ろしい連中なのであろう雨戸を閉ざす者もある。
 露路に向かって駈け込む者、露路から往来へ駈け出る者……それで、往来はごった返している。
「うむ、これなら大丈夫だ。身を隠すことも出来るだろう」
 松吉は背後《うしろ》を振り返って見た。薄紅い火事の遠照を縫って、青い火が一点ゆらめいて来る。
「どうもいけない、目つかりそうだ」
 また走らなければならなかった。
 出た所が富島町で、それを突っ切ると亀島橋、それを渡れば日本橋の区域、霊岸島から出ることが出来る。
「よし」と云うと岡引の松吉は、亀島橋をトッ走った。
 中与力《なかよりき》町が眼の前にあって、組屋敷が厳しく並んでいる。
「しめたしめた」とそっちへ走った。
 組屋敷の一画へ出られたら、松吉は安全に保護されるだろう。
 だが運悪く出られなかった。ぶちこわし[#「ぶちこわし」に傍点]の一団が大濤のように、その方角から蜒って来て、すぐに松吉を溺らせて、東北へ東北へと走ったからである。
 掻き分けて出ようと焦ったが、人の渦から出られそうもない。
 で、東北へ東北へと走る。
 日本橋の区域も霊岸島と負けずに、修羅の巷を現わしていた。


24[#「24」は縦中横]

 しかしさすがに蔵前へ迄は、ぶちこわし[#「ぶちこわし」に傍点]の手が届かないと見え、寧ろひっそりと寂れていた。
 と云うのはぶちこわし[#「ぶちこわし」に傍点]の噂を聞き込み、ここらに住んでいる大商人達が、店々の戸を厳重にとざし、静まり返っているからである。
 ふと現われた人影がある。
「とうとう大事になってしまった」
 他でもない宇和島鉄之進であった。
「江戸中騒乱の巣となろう。死人も怪我人も出来るだろう。霊岸島の方は火の海だ。八百八町へ飛火がしよう。と、日本中へ押し広がる。京都、大阪、名古屋などへも、火の手が上るに相違ない。幕府の有司のやり方が、不親切だからこんなことになる。金持のやり方もよくないよ」
 呟いたがフッと笑い出した。
「いやその金持の加賀屋の主人だが、もう帰ってはいないかしら。どうにも渡すものを渡さなければ苦になって心が落ちつかない」
 扇女《せんじょ》のために危難を救われ、扇女の部屋でしばらく憩い、もうよかろうという時になって、芝居小屋から旅籠へ戻り、今まで休んでいたのであったが、預った物が心にかかる。そこで加賀屋をもう一度訪ねて、主人が帰っているようなら、早速渡そうと出て来たのであった。
 本多|中務大輔《なかつかさたいふ》の屋敷の前を通り、書替御役所の前を過ぎ、北の方へ歩いて行く。
 鮫島大学の一味に追われ、日中早足に歩いたところを、逆に歩いて行くのである。
 急に鉄之進は足を止めた。
 眼の前に加賀屋が立っている。しかし表戸は厳重に下ろされ、静まり返って人声もしない。
 しばらく見ていたが苦笑いをした。
「そうでなくてさえこんな大家は、点火《ひともし》前には戸を立てるものだ。ましてやこんな物騒な晩には、閉じ込めてしまうのが当然だ。――と云うことも知ってはいたが、やはりうかうか[#「うかうか」に傍点]出て来たところを見ると、利口な俺とは云われないな」
 ここでちょっと考えたが、
「戸を叩くのは止めにしよう。怯えさせるのはよくないからなあ」
 そこでクルリと方向を変え、元来た方へ引っ返そうとしたが、
「待てよ」と呟くと足を止めた。
「今日長吉という若い手代が気になることを云ったっけ、『……裏木戸から出たのでもございましょうか、錠がこわれて居りました』と……その裏木戸を見てやろう」
 勿論単なる好奇心からではあったが、加賀屋の大伽藍の壁に添い、宇和島鉄之進は裏へ廻った。
 裏木戸の前まで来た時である、木戸の内側から女の声が、物狂わしそうに聞こえてきた。
「出しておくれよ、出しておくれよ!」
「戸外《そと》は物騒でございます、今夜だけは止めなさりませ」
「出しておくれよ。出しておくれよ!」
「明日の昼にでも参りましょう。さあさあ、お嬢様、お休みなさりませ」
「ねえ乳母《ばあや》、献金しておくれよ。……お久美様へねえ。どっさりお金を」
「はいはい献金致しますとも。……今夜はお休みなさりませ」
「眼の前にお父様がお在《い》でなさる。……ああそうしてお兄様も。血だらけになってお在でなさる。……でもお二人とも呼吸《いき》はある。……助けてお上げよ! 助けてお上げよ!」
「ね、お嬢様、お休みなさりませ。……どなたか参るといけません。……ね、お嬢様、お嬢様。……」
「すぐ眼の前にいなさるのだよ。……ほんのちょっとした物の陰に。……妾《わたし》には解《わか》る! 妾には解る!」
「……どうでもお気が狂われた。……あれ誰やら参ります。……お部屋へお入りなさいまし。……オヤ、お前東三さんか」
 すると男の声がした。
「ああ蔵番の東三さ。……お繁さんお前何をしている」
「お嬢さんが出なさろうというのだよ。……それで妾は止めてるのさ」
「ふん」と東三の声がした。
「お前から勧めているのじゃアないか。……ただの乳母《おんば》さんとは異《ちが》うようだなあ」
「何だよ」とお繁の声がした。
「そういうお前さんだっていい加減変さ」


25[#「25」は縦中横]

 娘の品子の声がした。
「東三、東三、悪党だねえ!」
「何を仰有《おっしゃ》います、お嬢様! ……おいお繁さん、奥へお連れ申せ! ……裏庭なんかを歩かせてはいけない」
「お部屋から抜けて来られたのだよ。……ね、お嬢様、内へ入りましょう」
 お繁とそうして東三とが、品子をなだめる声がしたが、やがて立ち去る足音がして、しばらくの間はひっそりとしたものの、またもや足音が聞こえてきた。
「お嬢さんには驚いたなあ。……どうしてお感づきなすったのだろう。……どうもな。……困った。……うっかり出来ない。……だが。……遅いなあ。……やりそこなったかな。……」
 裏木戸へ触る音がした。どうやら蔵番の東三らしい。
 しかし足音は遠ざかり、そうして全く静かになった。
 聞き澄ましていた宇和島鉄之進が、首を傾げたのは当然と云えよう。
「どうやら秘密があるようだ。いやこういう大家になると、いろいろの秘密があるものと見える。……だが、それはとにかくとして、いまだに主人は帰宅しないらしい。……これだけ確かめれば用はない。どれソロソロ帰ろうか」
 往来の方へ出ようした時[#「出ようした時」はママ]、にわかに四辺《あたり》が騒がしくなった。
 大勢の走って来る足音がする。
「逃がすな逃がすな」
「討って取れ」
「さあ追い詰めたぞ」
「しめた! しめた!」
 叫ぶ声々が聞こえてきた。
「はてな」と鉄之進は足を止めた。
「とうとうぶちこわし[#「ぶちこわし」に傍点]の手が来たか」
 その時一ツの人影が、往来の方から駈け込んで来て、二人あぶなくぶつかろうとした。
「これ、気をつけろ」
「真平御免」
 互いに相手を透かしたが、
「おっ、今朝方の小者ではないか」
「あ、あの時のお武家様で」
「どうしたどうしたあわただしい」
「追っかけられて居りますので」
「誰にな?」と鉄之進は不思議そうにした。
「例の柏屋の明けずの間の。……」
「うむ邪教徒の一味にか」
「はい左様でございます」
「よし」と云ったが鉄之進は、刀の下緒を引抜いた。
「今朝方約束したはずだ、場合によっては助けようと」
「それではお助け下さるので」
「拙者にも縁のある奴原《やつばら》だ。と云うより拙者の先生に、深い縁故のある奴だ、退治れば先生のお為にもなる。――其方《そち》は逃げろ! 一人で十分!」
 キリキリと下緒で綾を取る。
「それでは」と云って駈け抜けようとした時、裏へ廻った狂信者の群が、ムラムラとこっちへ寄せて来た。
「いけねえ」と喚いて岡引の松吉が、往来の方へ走ろうとした時、青白い龕の光が射し、お久美を先頭に狂信者の群が、ながれるように入り込んで来た。
「こっちもいけねえ」と喚いたが、
「ここは加賀屋か、急場のしのぎだ」
 壁へ手を掛けると身を躍らせ、飜然と裏庭へ飛び込んだ。
「誰だ!」と鋭い声がしたが、蔵番の東三の声らしかった。
「シッ、野暮な、大声を立てるな! ……よッ手前は大学一味の」
「何を! 手前は?」
「丁寧松だア」
 格闘をする音がしたが、つづいて松吉の声がした。
「蔵の戸が開いてる! や、死骸! しかも二人だ! こりゃア大変! ……息がある息がある虫の息だ!」
 壁の外側では宇和島鉄之進が、抜いた大刀で待ち構えたが、すぐに狂信者に包まれた。
「おお汝《おのれ》は宇和島鉄之進!」
 こう喚いたは市郎右衛門であった。
「うむ、柏屋の番頭か、その実お久美の一味だな。……いかにも宇和島鉄之進だ。……ただし本名は宇津木|矩之丞《のりのじょう》! すなわち大塩中斎先生の門下! これ!」と云うとヌッと出た。
「中斎先生に退治られた、京都の妖巫|貢《みつぎ》の姥《うば》、その高足のお久美という女、網の目を逃がれて行方が不明《しれな》い。その後も中斎先生には、心にかけられ居られたが、江戸にいようとは思わなかったぞ。見現わしたからにはようしゃはしない。先生に代わってこの矩之丞、破邪の剣を加えてやる。……一度にかかれ! 屯ろしてかかれ! 先ず汝《おのれ》から! 来い市郎右衛門!」
 技倆は十分、覇気は満腹、しかも怒りを加えている。
 飛び込みざまに横へ薙ぎ、市郎右衛門の胴を割り付けた。
 飛び返ると背後《うしろ》に土塀がある。それへ背中を食っ付けたが、
「一人退治た、次は誰だ! お久美お久美、今度は其方《そち》だ!」
 飛び込もうとするのを見て取るや、五六人信徒が中をへだてた。
「それでも感心、教主を守るか。充分に守れ、充分に切る。ソレ!」と飛び込むと一揮した。
「次はどいつだ。誰でもよい、行くぞ!」と叫ぶとまた一躍し、つれて悲鳴! 倒れる音がした。
 邪教徒たちがバタバタと逃げ出した。


26[#「26」は縦中横]

 それを追っかけた宇津木矩之丞は、信徒に囲まれ龕を捧げ、逃げて行
前へ 次へ
全11ページ中10ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
国枝 史郎 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング