ラリと捨て、刀をかざすとスーッと見た。
「切ったんじゃアない、峰打ちだ。刃こぼれがあってたまるものか」
 そこで、ソロリと鞘へ納めた。すると鍔鳴りの音がして、つづいて幽かではあったけれど、リ――ンと美しい余韻がした。
 鍔のどこかに高価の金具が、象眼されていたのだろう。
 それへ徹《こた》えてリ――ンと余韻が幽かながらもしたのだろう。
 宏大な屋敷が立っていて、厳重に土塀で鎧われていて、塀越しに新樹の葉が見える。
 空気に藤の花の匂いがあるのは、邸内に藤棚があるのだろう。屋敷は大阪の富豪として名高い平野屋の寮の一つであった。
 土塀に添い、十六夜月に照らされ、若い侍は立っている。
 身長は高いが痩せぎすであり、着流し姿がよく似合う。瀟洒として粋であり、どうやら容貌《きりょう》も美しいらしい。月を仰いだ顔の色が、白く蒼味を帯びていて、鼻が形よく高いのだろう、その陰影がキッパリとしている。
「平野屋の寮から例の物を持って、誰か江戸へ発足《た》ちはしまいかと、その警戒にやってきたのだが、変な侍三人に、闇討ちされようとは思わなかったよ。どうも今夜は気に入らない晩だ。……だがそれにしても不思議だなあ。素性も明かさず理由も云わず、フラフラッと切ってかかったんだからなあ。……女で怨みを買ったことも、金で怨みを受けたことも、これ迄の俺にはなかったはずだ。……覆面姿から推察《おしはか》ると、こいつら辻切りの悪侍《わる》共かな? しかしそれにしては弱いわる[#「わる」に傍点]だ。……引っこ抜いてポーンと肩を撲ると、一人がゴロッと転がってしまい、もう一度ポーンと頭を撲るともう一人がゴロッと転がってしまい、もう一度ビーンと横面を張ると、三人目のお客さんがひっくり返ってしまった。……ああも弱いと安心だが、また何だか気の毒にもなる。それにさ、第一道化て見える」
 ちょっと俯向き、何にもなかったというように、土に雪駄《せった》を吸い付かせ、若侍は歩き出した。
 取り入れるのを忘れたのであろう、かなり間遠ではあるけれど、五月幟《さつきのぼり》がハタハタと、風に靡く音がした。
 深夜だけにかえって物寂しい。
「そうだ今夜は宵節句だった」
 これは声に出して云ったのである。
 六七間も歩いたかしら、
「率爾ながら……」と呼ぶ声がした。
「しばらくお待ち下さるまいか」
 四辺《あたり》を憚った恥《しの》び音だ。
 グルッと振り返った若侍は、
「拙者のことで?」と隙かして見た。
 黒頭巾で顔を包んでい、黒の衣装を纏っている。いわゆる黒鴨|出立《いでた》ちであった。体のこなし[#「こなし」に傍点]、声の調子、どうでも年は三十七八、そういう武士が立っていた。
 大小をピンと胸高に差し、率爾ながらと呼びかけた癖に、何と無礼! 懐手《ふところで》をしている。ひどく横柄なところがあり、見下だしたような所がある。
 胸を悪くした若侍は、
「今夜はよくよく変な晩だ、いろいろの芸人が登場するよ」
 こう思ったのでぶっきら[#「ぶっきら」に傍点]棒に、
「御用かの! この拙者に?」
 すると向こうの武士が云った。
「感嘆してござるよ、立派な腕前」
「大変な黒鴨が出やアがった。俺を褒めるとは度胸がいいや。褒めるからには褒めっ放しでもあるまい。いずれ可《い》い物でもくれるのだろう」
 可笑《おか》しくなったので若侍は、
「お弱《よお》うござんしたからな、先方が」
「なかなかもって」と黒鴨の武士は、
「彼等も相当の手利きでござる」
「ははあ」と云ったが感付いた。
「さては貴殿のお仲間だの」
「さよう」とわるく[#「わるく」に傍点]おちついている。




「そうか」と云ったが若侍は、今度は少し腹を立てた。
「では早速お訊き致す、何故拙者を襲われた?」
 まごまごした返事でもしようものなら、叩っ切ってやるぞと云うように、ヌッと一足進み出た。
 しかし、相手の黒鴨も、何かに自信があると見え、その横柄さを持ち続け、
「士官[#「士官」はママ]なさる気はござらぬかな?」
 こんなことを云い出した。
「え、士官? 貴殿にかな?」
 これには若侍は参ってしまった。
(どうもいけないや、俺より上手だ)
 そこで茫然《ぼんやり》して絶句した。
 すると、黒鴨の武士が云った。
「長くとは申さぬ、一カ月余」
 それからスルスルと進み寄ったが、囁くように云いつづけた。
「悪いことは申さぬ士官おしなされ。もっとも主取りの御身分なら、無理にもお進め出来ないが。いやいや先刻《さっき》からの御様子でみれば、かけかまい[#「かけかまい」に傍点]のない御身上らしい。それで敢てお進めいたす。士官おしなされ士官おしなされ。実は」と云うといよいよ益々、声を細めて囁くようにしたが、
「ここ数夜、この界隈で、拙者試していたのでござる。勝れた武辺者はあるまいかとな。今は天保、浮世は飢饉、そのためでもござろう、腕の出来るご仁に、不幸、一人もぶつかり[#「ぶつかり」に傍点]ませんでしたよ。ところが今夜ゆくりなく、ぶつかり[#「ぶつかり」に傍点]ましたなア御貴殿に。……そこで、すっかり喜んだという次第。そこで、士官をお薦めするという次第。……そうは云っても藪から棒に、無闇と士官をお薦めしても、貴殿にはおそらく烏乱に覚《おぼ》され、御承引を手控えなされようもしれぬ。これは御理《ごもっとも》、当然でもござる。それでまず何より拙者の身分を、お打ち明け致すのが順当でござるが、まあまあそれははぶく[#「はぶく」に傍点]として、ただし、姓名だけ申しましょうかな。鮫島大学《さめじまだいがく》と申します。それより何より禄の方をな、定めることに致しましょう。一日五両はどうでござる」
 ここまで云って来て黒鴨の武士は、ヒョイと二三歩下ったが、首を傾げると覗くようにした。
「ただし……」と云うと黒鴨の武士は、今度は二三歩前へ出た。
 と、例によって囁くような声で、
「ただし、仕事はちと[#「ちと」に傍点]困難、と云っても貴殿の腕前なら、勿論何でもなく仕遂げられますて。ところで仕事の性質は? と、貴殿には訊かれるかも知れない。さあこれとて考えようで。善悪両様に取られますなあ。そこで、こいつは預かるか、ないしは善事だと決めてしまうか、ホッ、ホッ、ホッ、どっちでもよろしい」
 三十七八の男の癖に、ホッ、ホッ、ホッと女のような、滑らかな厭らしい笑い方をしたが、
「さてここまで云って来れば、後は何も彼もスッパリと、ぶちまけた方がよろしいようで。そこでお打ち明け致しましょう」
 ところがそれ前に若侍は、蹴飛ばすような声で云った。
「解《わか》っておるよ!」とまずノッケだ。
「受負でござろう、殺人《ひとごろし》のな!」
「ほほう成程、そう解されたか」
「でなかったらぶったくり[#「ぶったくり」に傍点]さ」
「成程な、なるほどな」
 黒鴨の武士は退いたが、
「ひょっとかすると、両方かも知れない」
「殺人の上にぶったくり[#「ぶったくり」に傍点]か、アッハッハッ、それにしては」
 若侍は横を向いた。
「安すぎますて、五両の日当」
「割増ししましょう、七両ではいかが?」
「まだ安い。駄目だ駄目だ!」
「あッ、なるほど、では八両」
「刻むな刻むな」と若侍は、グット胸を反らせたが、
「厭だと云ったらどうなさる」
「さればさ」と云うと黒鴨の武士は、スラスラとスラスラ左手へ寄った。間《あわい》一間、そこで止まると、ピンと右手の肘を上げた。と自然に掌が、柄の頭へあてられた。薄っペラな態度や声にも似ず、腰が据わって足の踏まえ、ピッタリ定《き》まって立派な姿勢。上げた右肘で敵を圧し、全身を斜めに平めかせ、首を幾何《いくばく》か前方へ曲げ、額い越しに睨んで狙いすました。籠めた気合で抜き打ったら、厭でも太刀は若侍の、左胴へ入るに相違ない。根岸|兎角《とかく》を流祖とした、微塵《みじん》流での真の位、即ち「捩螺《れいら》」の構えである。
「ううむこいつは素晴らしい」
 それと見て取った若侍は、こう思わず呟いたが、
「しかも不気味な腥《なまぐさ》い、殺気が鬱々と逼って来る。剣呑だな、油断は出来ない」
 しかしよくよく若侍には、腕に自信があると見え、刀の柄へ手もかけず、ブラッとしたままで立っていた。
 と、黒鴨の武士であるが、別に切り込んで行こうとはせず、あべこべ[#「あべこべ」に傍点]にヒョイと後退《あとじさ》ると、ダラリと両手を両脇へ下げ、それからまたも懐手をしたが、薄っペラの調子で喋舌《しゃべ》り出した。
「ざっとこんな[#「こんな」に傍点]恰好で。つまり貴殿不承知なら、秘密の小口を明かせた手前、生かしては置かぬ! 叩っ切る! と云うことになりますので。……と云うとおっかない[#「おっかない」に傍点]話になるが、何のこんなにも旨い話、貴殿諾かずにおられましょうか。承知と云われるは知れたことで。……だが日当不足となら、清水の舞台から飛んだつもりで、一日十両まで糶《せ》り上げましょう。これでは御不満ありますまいな。手を拍ちましょう、シャンシャンシャン! いかがなもので? シャンシャンシャン!」
 呑んでかかった態度である。




 こいつを聞くと若侍は、にわかに愉快になったらしい。
「一風変わった悪党だわえ。よしよし面白い面白い、ひとつこいつの手に従《つ》いて、殺人《ひとごろし》請負業を開店《ひら》いてやろう。天変地妖相続き、人心恟々天下騒然、食える野郎と食えぬ野郎と、変にひらき[#「ひらき」に傍点]があり過ぎる。こんな浮世ってあるものか。殺人だって必要さ」
 そこで若侍はズバリと云った。
「きっと十両出されるかな?」
「出します出します。……御承知かな」
「まず即金、一日分が所」
 若侍は手を出した。
「これはお早い、早速のことで」
 黒鴨もこれには驚いたらしい。
「が、結構、では十両」
 グッと懐中《ふところ》へ手を入れると、チャリン、チャリンと音をさせた。
 小判を数えたに相違ない。
 手を引き出すと掌《てのひら》の上に、黄金十枚が載っていた。
「遠慮は御無用、さあさあお取り」
「開店祝で、何の遠慮、では確かに」
「あ、しばらく、それにしても、せめて姓名なと! ……」
「拙者姓名は……」と云いかけたが、
(本名宇津木|矩之丞《のりのじょう》と、ほんとに宣《なの》っては面白くない)
 そこで、
「宇和島鉄之進《うわじまてつのしん》」と宣った。
「ではこの金を……」
「頂戴いたす。どれ」と小判を掴もうとした途端に、
「こちらへ御士官なされませ!」と、老人の声が聞こえてきた。
「日当二十両出しましょう!」
 傍らに立っている平野屋の寮の、その表門の背後《うしろ》から、声は聞こえてきたのである。
「やッ!」と云ったは若侍で、
「しまった!」と叫んだは黒鴨の武士で……
 すぐに、ギーと潜戸《くぐりど》が開き、またもや老人の声がした。
「お入りなさりませ、御浪人様!」
「オイ」と云ったは黒鴨である。
「どうだどうだ、どっちへ仕える?」
「考えるにも及ぶめえ」
「十両取るか」
「どう致しまして」
「それじゃアあっちへ行くつもりか?」
「云うにゃ及ぶだ、倍も食えらあ」
「きっとか」と黒鴨は眉を縮《ちぢ》めた。
「何時《いつ》如何《いか》なる時代でも、もっと食える方へ行くものさ」
「ホッ、ホッ、ホッ」
 嘲笑である。黒鴨が嘲笑をしたのである。
 が何とその嘲笑、残忍性を帯びていることか。
「そうか、だがな、オイ若侍、そうなった日の暁には、拙者の矢面へ立つのだぞ!」
「よかろう、大将、戦おうぜ!」
「まずこうだあァ――ッ」と凄い気合を、かけると同時に抜いた太刀で、のめらん[#「のめらん」に傍点]ばかりの掬《すく》い切り、若侍の股の交叉《つがい》を、ワングリ一刀にぶっ放した[#「ぶっ放した」は底本では「ぶつ放した」]。――と云う手筈になるところを、飛び違った若侍は、
「こっちもこうだあァ――ッ」と浴びせかけ、飛び違う間に抜いた太刀を、ヌ――ッとのす[#「のす」に傍点]と振り冠った。
 で、無言だ
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