乞食はそっちを見ていたが、ふっ[#「ふっ」に傍点]とばかりに呟いた。
「今夜あたり起こるでございましょうよ。恐ろしい恐ろしい騒動が」
「ほほう」と云ったものの松吉は、どういう意味だか解らなかった。
「何が起こると有仰るので!」
丁寧な言葉で訊き出した。
「私は乞食でございますよ」
「まあね、そりゃア、そうかも知れない。……それがどうしたと仰有るので?」
「で、江戸中をほっつい[#「ほっつい」に傍点]ています」
「私の商売と似ていまさあ」
「私の方がもっともっと、露地や裏店に縁故があります」
「そうして私にゃア悪党がね」
「どっちみち浮世の底の方に、縁故があるというもので」
「正に! そうだよ! 違いないなあ」
「親分!」と乞食は意味あり気に云った。
「露地や裏店の連中が、黙っているものと思いなさるかね?」
「何を?」
「へー」
「何をだよ」
「そいつを私にお訊きなさるので?」
「うん」と云ったが気になる調子だ。
「大概見当は付いているがね。……」
「隣家《となり》の餓鬼が死のうとも、こっちのお家じゃア驚かない。ところが一旦自分の方へ。……」
「移った日にゃア狂人《きちがい》になる」
「そいつが総体に移っているので」
「全くなあ、その通りだ。場末の横町へ踏み込むと、飢え死んだ人間が転がっているなあ」
「今度は俺らの番だろう……こう考えている人間が、幾万人あるか知れないんで」
「そうだろうなあ、そう思うよ」
「理屈抜きに皆が食えないんで」
「こいつが一番恐ろしい」
「そこを狙って悪い奴が――でなかったら義人だが。もっとも血眼で探したって、義の付く人間なんかいませんがね――烽火《のろし》を揚げたらどうなりましょう」
「煽動したらと云うのかい」
乞食は幽かに頷いたが、
「火が上りますぜ! 今夜あたり! そうしてそれから騒動よ! 米屋が襲われるでございましょう」
「だがオイ」と云うと詰め寄った。
「どうして付けたね……え、眼星を! そうだよそうだよ、どうして今夜と?」
「申し上げたじゃアございませんか。ね、乞食の身分だと」
「それは知ってる、知ってるがね。……」
「下情に通じて居りますので」
「それも知ってる、知ってるがね。……」
「推察したのでございますよ。今夜あたりが天井だと」
松吉は黙って腕を組んだ。
22[#「22」は縦中横]
組んだその腕をパラリと解くと、
「素性を明かしておくんなせえ」
丁寧な語調で問いかけた。だが、態度には隙がない。
「さればさ」と云ったが沈痛であった。
「上州産れの乞食だと、こうもう私が云ったところで、合点をしては下さるまいねえ。……永らく私の住んでいた、その土地の名でも申しましょう。……遠い他国なのでございますよ」
「と云って唐でもありますめえ」
「いやその唐だよ、上海《シャンハイ》だ!」
「上海?」
「左様」
「そうでしたかねえ」
「この国へ帰ったのは一年前」
いよいよ沈痛の顔をしたが、
「追っかけて来たのでございますよ」
「何をね?」と松吉は突っ込んだ。
「大事なものを!」とただ一句だ。
「で、眼星は?」
「まず大体。……」
「付いた? 結構! 方角は?」
「あの方角で! 霊岸島!」
「うむ」と云うと岡引の松吉は、十手と取縄とを懐中へ蔵《しま》い、
「霊岸島には用がある。おいお菰さん、一緒に行こう」
「へい」と云ったが空を見た。
「夏は日永で暮れませんねえ」
「ホイ、ホイ、ホイ、そうでしたねえ、日のある中は何にも出来ねえ」
だがその日もとうとう暮れ、夜が大江戸を領した時、いう所の、「ぶちこわし」――掠奪、放火、米騒動の、恐ろしい事件が勃発した。
最初に暴動の起こったのは、霊岸島だということである。
ここはその霊岸島で……
今、一団の群集が、柏屋の裏口から走り出した。
五十人余りの人数である。
真先に立ったのは巫女姿のお久美で、点火した龕を捧げてい、御弊を片手に持っている。懐刀仕込みの御弊である。
白衣、高足駄、垂らした髪、ユラユラユラユラと歩いて行く。
傍に添ったのは市郎右衛門で、脇差を腰にさしている。
それを囲繞した五十余人が、東北の方へ走って行く。
大音に叫ぶはお久美の声で……
「おお信者らよ、教法を守れ! 破壊しようとするものがある! おお信者らよ、教法を守れ! ……有司の驕慢、幕府の横暴、加うるに天災、世は飢饉! 天父がお怒りなされたのだ! 恐れよ、慎め、おお人々よ! 天父をお宥め申し上げろ! ……続け、続け、我に続け! 浄土が見えよう、我に続け! 飢えたる者よ、我に来よ! 死したる者よ、甦るだろう! 病める者よ、癒されるであろう! ……食を見付けよ! 到る所にあろうぞ! 我に来る者よ、幸福であろうぞ! ……」
東北の方へ進んで行く。次第に人が馳
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