返って人声もしない。
しばらく見ていたが苦笑いをした。
「そうでなくてさえこんな大家は、点火《ひともし》前には戸を立てるものだ。ましてやこんな物騒な晩には、閉じ込めてしまうのが当然だ。――と云うことも知ってはいたが、やはりうかうか[#「うかうか」に傍点]出て来たところを見ると、利口な俺とは云われないな」
ここでちょっと考えたが、
「戸を叩くのは止めにしよう。怯えさせるのはよくないからなあ」
そこでクルリと方向を変え、元来た方へ引っ返そうとしたが、
「待てよ」と呟くと足を止めた。
「今日長吉という若い手代が気になることを云ったっけ、『……裏木戸から出たのでもございましょうか、錠がこわれて居りました』と……その裏木戸を見てやろう」
勿論単なる好奇心からではあったが、加賀屋の大伽藍の壁に添い、宇和島鉄之進は裏へ廻った。
裏木戸の前まで来た時である、木戸の内側から女の声が、物狂わしそうに聞こえてきた。
「出しておくれよ、出しておくれよ!」
「戸外《そと》は物騒でございます、今夜だけは止めなさりませ」
「出しておくれよ。出しておくれよ!」
「明日の昼にでも参りましょう。さあさあ、お嬢様、お休みなさりませ」
「ねえ乳母《ばあや》、献金しておくれよ。……お久美様へねえ。どっさりお金を」
「はいはい献金致しますとも。……今夜はお休みなさりませ」
「眼の前にお父様がお在《い》でなさる。……ああそうしてお兄様も。血だらけになってお在でなさる。……でもお二人とも呼吸《いき》はある。……助けてお上げよ! 助けてお上げよ!」
「ね、お嬢様、お休みなさりませ。……どなたか参るといけません。……ね、お嬢様、お嬢様。……」
「すぐ眼の前にいなさるのだよ。……ほんのちょっとした物の陰に。……妾《わたし》には解《わか》る! 妾には解る!」
「……どうでもお気が狂われた。……あれ誰やら参ります。……お部屋へお入りなさいまし。……オヤ、お前東三さんか」
すると男の声がした。
「ああ蔵番の東三さ。……お繁さんお前何をしている」
「お嬢さんが出なさろうというのだよ。……それで妾は止めてるのさ」
「ふん」と東三の声がした。
「お前から勧めているのじゃアないか。……ただの乳母《おんば》さんとは異《ちが》うようだなあ」
「何だよ」とお繁の声がした。
「そういうお前さんだっていい加減変さ」
25[#「
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