の女が現われた。
「まあお嬢様!」と声をかけたが、やにわに品子を抱きしめると、二人ながらベタベタと崩折れた。
「乳母《ばあや》!」と呼んだが縋り付いた。
「お嬢様お嬢様! ……もう不可《いけ》ない! ……気が狂われた! お可哀そうに!」
「乳母!」と縋ったがうっとり[#「うっとり」に傍点]となった。
「献金しておくれよ! たくさんにねえ」
「どこへ?」と乳母は眼を見張った。
「お久美様へだよ。……ねえたくさんに。……」
 すると乳母のお繁の顔へ、凄い微笑があらわれたが、
「はいはいよろしゅうございますとも」
 だがその時ソロソロと、一方の襖があけられて、一人の男の顔が出た。薄|痘痕《あばた》のある顔である。気付いてお繁が顔を向けると、すぐに襖は閉ざされた。
「蔵番の東三だが、変だねえ」
 何となく不安を感じたのだろう、お繁は頤《おとがい》を襟へ埋めたが、ちょうどこの頃宇和島鉄之進は、順賀橋《じゅんがばし》の辺りを歩いていた。


18[#「18」は縦中横]

 本多|中務大輔《なかつかさだいふ》の邸を過ぎ、書替御役所の前を通り、南の方へ歩いて行く。
 ヂリヂリと熱い夏の午後で、通っている人達にも元気がない。日陰を選んで汗を拭き拭き、力が抜けたように歩いて行く。ひとつは飢饉のためでもあった。大方の人達は栄養不良で、足に力がないのであった。
「南北三百二十間、東西一百三十間、六万六千六百余坪、南北西の三方へ、渠《ほりわり》を作って河水を入れ、運漕に便しているお米倉、どれほどの米穀が入っていることか! いずれは素晴らしいものだろう。それを開いて施米したら、餓死するものもあるまいに、勝手な事情に遮られて、そうすることも出来ないものと見える」
 心中《こころ》でこんなことを思いながら、お米倉の方角へ眼をやった。すると、眼に付いたものがある。五六人の武士が話し合いながら、鉄之進の方へ来るのである。姿には異状はなかったが、様子に腑に落ちないところがあった。と云うのは鉄之進が眼をやった時、急に話を止めてしまって、揃って外方《そっぽ》を向いたからである。そうしてお互いに間隔《へだて》を置き、連絡のない他人だよ――と云ったような様子をつくり、バラバラに別れたからである。
「怪しい」と鉄之進は呟いた。
「加賀屋の手代だと偽って、昨夜深川の佐賀町河岸で、うまうま俺をたぶらかし[#「たぶらか
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