あこの女は狂信者だ! こう思わずにはいられないだろう。
女は、全身を現わしたのではない。二尺余り開いた戸の隙から、半身を覗かせているのであった。
「市郎右衛門! 市郎右衛門!」
その女が呼んだのである。喰い縛ったような声である。
すると、木立を押し分けて、一人の男が現われた。他でもない番頭であった。だが、相好が変っている。キョトキョト恐れおどついて[#「おどついて」に傍点]いた、先刻《さっき》までの番頭ではないのであった。
「お久美様!」と土下座をした。
「かようなことになろうとは……迂闊千万にございました」
「今は云わぬよ! 何にも云わぬよ! ……しかし生かしては置かれない! ……今日中に命を取《と》るがいい! ……手が入ったら一大事だ」
「手配り致すでございましょう。……それに致しても血刀は?」
「意外だったよ、妾《わたし》にしてからが! ……裸体《はだか》に剥かれた人間が……」
「お部屋にいたのでございますか?」
「で、切ったのだ! 剖《あば》いたからの」
「では宇和島と宣った武士で?」
市郎右衛門はギョッとしたらしい。
「妾は知らぬよ。……切っただけだよ。……手配りをおし! 一刻も早く!」
「はい」と云うと走り去った。
なお、女は立っている。
「あいつのお蔭だ! ……大塩中斎《おおしおちゅうさい》! ……お気の毒な貢《みつぎ》様! ……妾までこんな目に逢っている。……」
血刀が鈍く光っている。
「一世の碩学[#「碩学」は底本では「硯学」]、貢の巫女……それから伝わったこの教法……滅ぼしてなろうか! 滅ぼしてなろうか!」
柏屋を飛び出た岡引の松吉は、この頃往来を走っていた。
16[#「16」は縦中横]
だが、十間とは走らなかった。柏屋と斜めに向かい合い、表門の一所に桐の木を持ち、黒板塀に蔽われた、宏大な屋敷が立っていたが、ちょうどそこまで走って来た時、一つの事件にぶつかっ[#「ぶつかっ」に傍点]てしまった。
と云うのは二階の障子が開き、武士の姿が現われたが、松吉を目掛けて腕を振り、同時に障子を閉じたのである。
昼の日を貫き一閃したは、投げられた小柄に相違ない。同時にピシッと音がした。
すなわち岡引の松吉が、走りながらの神妙の手練、懐中の十手を引き抜くと、見事に払って捨たのである。
「うむ、やったな! 鮫島大学!」
叫んだ時には数間
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