[#「ひん」に傍点]剥いて、自分の衣裳の上へ着て――着ふくれ[#「ふくれ」に傍点]ていたっていうことだからな――手代に化けてこの旅籠から、脱出して行ったというものさ。……行燈の火が消えたという。案内の女中に化けた姿を、感付かれまいために宇和島という武士が、行燈の側を通る時、袂でも振って消したのさ。……さて疑問として残るのは、衣裳を剥がれた贋手代の、可哀そうな身柄がどこにあるかってことさ……」
 この時開けずの間の建物の中から、物の気勢《けはい》が聞こえてきた。
「いつからともなく柏屋の庭に、開けずの間という建物があって、一切人を内へ入れず、一切人を寄せ付けず、厳《おごそか》に鎮座ましますと、世間の噂に立つようになったが、どう考えてもおかしいよ」
 口の中での呟きである。
「どだい建物というものは、人が住むために建てるものだ。人の住めない建物なら、さっさと壊すがいいじゃアないか。そんな建物を建てて置く! どうでも二二ンが四じゃアない」
 胸の中で珠算をやり出した。
「もっとも」と、これも口の中である。
「お宮と云ったような建物もある。だがもしそいつ[#「そいつ」に傍点]がお宮なら、神様が住んでいなけりゃアならない。……となすとここの建物にも、神様が住んでいるのかな」
 頭が一方へ傾いて行く。ピッタリ片耳が戸へあたる。
「うむ!」と突然丁寧松は、呻《うめき》の声を洩らしたが、
「やりゃアがったな!」と飛び上った。
「ヤイ!」と怒鳴ったが鋭い声だ。
「殺生な真似をしやアがるな! 丁寧松だ! 見現わしたぞ!」
 だがその次の瞬間には、非常な危険を直感した、猟り立てられた獣のように、庭を駆け抜け、主母《おもや》を駆け抜け、往来へ飛び出してしまったのである。
 すると、その時音も立てず、離れ座敷の雨戸が開いたが、その隙間から見えたのは、一人の女の姿であった。身に行衣を纏ってい、左手に御弊《ごへい》を握っている。しかし右手に下げているのは、血に塗られた短刀であった。御弊に仕込まれた懐刀らしい。美しいことも美しいが、その凄さは二倍と云えよう!
 髪を頸《うなじ》に束ねている。それで額が三角形に見える。ぼうぼうと[#「ぼうぼうと」に傍点]毛ば立った太い眉、耳まで続いていないだろうか? そう思わなければならない程、延々と長く引かれている。だがその下に凝然と、見据えられた眼を見た人は、あ
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