「ええと昨夜も更けた頃に、町方のお役人がこっそりと、加賀屋へ参ったそうでございますよ」
「ああ町方のお役人様がね」
「で主人と逢いましたそうで」
「ああ左様で、源右衛門さんとね」
「ええそれからヒソヒソ話……」
「ははあお役人と源右衛門さんがね」
「と、どうしたのか源右衛門さんには、にわかに血相を変えまして、奥へ入ったということで」
「なるほどね、なるほどね」
「つまりそれっきり消えましたそうで」
「なるほどね、なるほどね」
「ところがもう一つ不思議なことには……」
「はいはい、不思議が、もう一つね」
「その夜若旦那も帰りませんそうで」
「へーい、なるほど、源三郎さんもね」
「親子行方が知れませんそうで」
「それは、まあまあ[#「まあまあ」に傍点]大変なことで」
 聞いているのは岡引の松吉で、その綽名《あだな》を「丁寧松」といい、告げに来たのは松吉の乾兒《こぶん》の、捨三《すてさぶ》という小男であった。
 所は神田|連雀《れんじゃく》町の丁寧松の住居《すまい》であり、障子に朝日がにぶく[#「にぶく」に傍点]射し、小鳥の影がぼんやり[#「ぼんやり」に傍点]とうつる、そういう早朝のことであった。
 捨三が旨を受けて行ってしまうと、丁寧松は考え込んだ。
 その時お勝手から声がした。
「何だいお前、お菰《こも》の癖に、親分さんに逢いたいなんて」
 ちょっと小首を傾げたが、ツイと立ち上った丁寧松は、きさくにお勝手へ出て行った。
「お梅さんお梅さんどうしたものだ、お菰さんだろうと何だろうと、お出でなすったからにはお客さんだよ。不可《いけ》ない不可ない、粗末にしては不可ない」
 下女のお梅をたしなめ[#「たしなめ」に傍点]たが、ヒョイと丁寧松は眼をやった。乞食が勝手口に立っている。
「これはいらっしゃい。何か御用で?」
「へい」と云ったが入って来た。
「お貰いに参ったんじゃアございません、お為になろうかと存じましてね。ちょっとお聞かせにあがりましたんで」
「ああ左様で、それはそれは。……お梅さんお梅さん向うへ行っておいで。……さあさあ貴郎《あなた》遠慮はいらない。おかけなすって、おかけなすって」
「ここで結構でございますよ、実はね親分」と話し出した。
「人殺しがあったんでございますよ」
「へーい、人殺し? それはそれは」
「そいつをあっし[#「あっし」に傍点]は見ていたんで」

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