。静かである。ハタハタハタ……ハタハタハタと、夜風に靡く五月幟《さつきのぼり》の、音ばかりが聞こえてくる。
位取った二人は動かない。藤の花の匂い、ほのかであり、十六夜《いざよい》の光、清らかである。こんな奇麗な佳《い》い晩に、二人は斬り合おうとするのであった。
二人は動いて、太刀音がした! 即ち鏘然、合したのである。と、ピッタリ寄り添った。鍔逼り合いだ! 次は勝負! どっちか一人斃れるだろう。しかし群像は動かない。群像の頭上を抽《ぬきんで》てキラキラ閃めくものがある。月光を刎《は》ねたり纏ったり、ビリ付いている太刀である。と、忽然、次の瞬間、「ウン」と云う呻き! 二人同時だ! 群像は前後へ別れたが、不思議とどっち[#「どっち」に傍点]も仆れなかった。しかも一つの人影が、糸に引かれるそれのように、非常に素早く後退り、潜戸の側まで近寄って、そうして潜戸が一杯に開いて、その人影を吸い込んで、そうしてギ――ッと閉ざされた時、闘争は終りを告げたのである。
屋敷へ入り込んだは若侍であり、後へ残ったのは黒鴨の武士で。……
後はひっそり[#「ひっそり」に傍点]と静かであった。
6
事件はここで江戸へ移る。
ここは深川の霊岸島。そこに一軒の屋敷があった。特色は表門の一所に、桐の木の立っていることであった。その奥まった一室である。
一人の着流しの武士が、頬杖をついて寝そべっている。年の頃は三十七八、色蒼黒く気味が悪い。ドロンと濁ってはいるけれど、油断も隙もならないような、妙な底光を漂わした眼、しかも左の一眼には、星さえ一つ入っている。顎の真中《まんなか》に溝があって、剣難の相を現わしている。小鼻の小さい高い鼻、――いやという程高いので、益々人相を険悪に見せる。いつも皮肉な揶揄的の微笑が、唇の辺りにチラツイている。だが一種の好男子とは云える。
この家の主人鮫島大学で、無禄の浪人でありながら、非常に豪奢な生活《くらし》をしている。――と云う噂のある人物である。
その鮫島大学の前に、膝を崩して坐っているのは、ちょっと言葉に云い表わせないような、濃艶さを持った女であった。薄紫の単衣《ひとえもの》、鞘形寺屋緞子《さやがたてらやどんす》の帯、ベッタリ食っ付けガックリ落とした髷の結振りから推察《おしはか》ると、この女どうやら女役者らしい。よい肉附き、高い身長《せい》。力のある
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