ている中、宇津木矩之丞と出会ったまでである。
大学は江戸へ帰ったが、矩之丞が大阪から上陸した晩に、手下の者へ云いふくめ、加賀屋からの迎えだと偽わって、旅籠屋の柏屋へ送り込み、手下の一人を同宿させて、機を見て貴重品を盗ませようとしたのを、矩之丞が早くも感付いて、あべこべに手下に当身をくれ、衣裳を奪って自分が着て、旅籠屋の柏屋を抜け出したのである。
裸体《はだか》に剥いた大学の手下を、開けずの間の中へ放り込んだのには、次のような事情があったのである。
何となく宇津木矩之丞には、開けずの間の建物が気になったので、そこで深夜に行ってみると、その後から例の大学の手下が、コッソリ尾行《つけ》て来たのである。
そこで、気絶させて裸体に剥き、開けずの間の中へ抛り込んだまでで、その時開けずの間が邪宗の道場で、十字架、祭壇というような、いろいろの物のあるのを知り、一驚したということである。
宇津木矩之丞のその後については、いろいろの説が行なわれている。
大塩中斎《おおしおちゅうさい》に諌言をし、一揆(天満《てんま》から兵を挙げ、大阪の大半を焼き打ちにかけ、悪富豪や城代を征め、飢民を救済しようとしたので、世人、天満焼《てんまやけ》と称したが)――その一揆の勃発を、中止させようと努めたところ、中斎がそれを諾《き》かなかったので、矩之丞は断念し、大塩中斎の党から脱し、身を完《まっと》うしたとそういうのが、一番真相に近いらしい。
乳母のお繁は悪人ではなかった。ただお久美の信者であって、時々品子の口を通し、源右衛門をして献金させようとしたが、源右衛門は承知をしなかったそうで、それを苦にした娘の品子が発作的に一時気を狂わせ、ああいうことを云ったまでで、そうして品子が父や兄について、近所にいると看破したのは、神経病者にありがちの、直感の結果だということである。
底本:「国枝史郎伝奇全集 巻五」未知谷
1993(平成5)年7月20日初版
初出:「文芸倶楽部」
1927(昭和2)年6月〜10月
※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5−86)を、大振りにつくっています。
※「仰有る」と「有仰る」、「中務大輔」のルビにおける「なかつかさたいふ」と「なかつかさだいふ」の混在は、底本通りです。
※小見出しの終わりから、行末まで伸びた罫は、入力しませんでした。
前へ
次へ
全55ページ中54ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
国枝 史郎 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング