たので、その祟りが来たのでもあろうか、(いや、そうでもないらしいが)とにかく専斎の身の上に一つの喜悲劇が起こったのはそれから間もなくのことであった。
 その日、専斎は六歌仙のうち、手に残った黒主の軸を床の間へかけて眺めていた。
「うむ、いつ見ても悪くはないな。それにしても惜しいのはお菊に盗まれた小野小町だ」
 いつも思う事をその時も思い、飽かず画面に見入っていた。もうその時は点燈頃《ひともしごろ》で、部屋の中は暗かったが、彼は故意《わざ》と火を呼ばず、黄昏《たそがれ》の微光の射し込む中でいつまでも坐って眺めていた。
 と、あろう事かあるまい事か、彼の眼の前で大友黒主が、次第に薄れて行くではないか。
「おやおや変だぞ。これはおかしい」
 驚いて見ているそのうちに黒主の絵は全く消え似ても似つかぬ異形の人物が朦朧《もうろう》とその後へ現われたが、よく見ればこれぞ貧乏神で、ニタリと一つ気味悪く笑うとスルスルと画面から抜け出した。見る見るうちに大きくなり、ニョッキリ前へ立ちはだかっ[#「はだかっ」に傍点]た。
 それが横へ逸《そ》れるかと思うと、庭の方へ歩いて行く。
「泥棒!」
 とばかり飛び上がり、恐さも忘れて組み付いた。ひょい[#「ひょい」に傍点]と飜《かわ》した身の軽さ。フワリと一つ団扇《うちわ》で煽《あお》ぎ、
「これこれ何んだ勿体ない! 俺は神じゃぞ貧乏神じゃ! 燈明を上げい、お燈明をな! 隣家の藪殿を見習うがよい。フフフフ、へぼ[#「へぼ」に傍点]医者殿」


    禍福塀一重

 お菊に軸を盗まれて以来、家族の者は一様に神経質になっていたが、「泥棒」という専斎の声が主人の部屋から聞こえると共に一斉に外へ飛び出した。出口入り口を固めたのである。
「庭へ出た! 裏庭へ廻れ!」専斎の声がまた聞こえた。
 その裏庭には屈強の弟子が三人まで固めていたが、薄穢いよぼよぼの老人が築山の裾をぐるりと廻り此方《こなた》へチョコチョコ走って来るので、不審の顔を見合わせた。
「まさか彼奴《きゃつ》じゃあるまいね」佐伯と云うのが囁いた。
「そうさ、あいつじゃあるまいよ。泥棒にしちゃ威勢が悪い」本田と云うのが囁き返す。
「しかし」と云ったのは山内というので、「変に見慣れない爺《じじい》じゃないか」
 その見慣れない変な爺《おやじ》はスーッとこの時走り寄って来たが、
「へい、皆様ご苦労様で」ひょこん[#「ひょこん」に傍点]と一つ頭を下げ、「泥棒なら向こうへ行きやしたぜ」主屋の方を指差した。
「うん、そうか」と行きかかる。とたんに聞こえて来る専斎の声。
「その爺《おやじ》を捕まえろ! その爺が泥棒だ!」
 あっ[#「あっ」に傍点]と云って振り返った時には、爺の姿は遙か向こうの塀の裾に見えていた。それ[#「それ」に傍点]っと云うので追っかける。その後から専斎が喘《あえ》ぎ喘ぎ走る。
 貧乏神は塀際に立ち、一丈に余る黒板塀をじっとその眼で計っていたが、若々しい鋭い元気のよい声で「ヤッ」と一声かけたかと思うと手掛かりもない塀の面をスーッと頂上《てっぺん》まで駈け上がったがそこでぐるり[#「ぐるり」に傍点]と振り返り、きわめて劇的の身振りをすると、
「馬鹿め! アッハハ」と哄笑し、笑いの声の消えないうちに隣家の庭へ飛び下りた。
 ようやく駈け付けた専斎は、
「藪殿! 藪殿! ご隣家の藪殿!」涸れ声を絞って呼びかけた。「賊がそちらへ逃げ込んでござる! 取り抑えくだされ取り抑えくだされ! それ一同表へ廻り藪殿お邸へ取り詰めるがよい!」

 この時紋太郎は部屋にいたが、「泥棒!」という声を聞くとすぐ縁側へ出て行った。
「また賊がご隣家へはいったそうな。よくよく泥棒に縁があると見える」
 呟きながら佇んでいると、庭を隔てた黒塀の上へ突然人影が現われた。
「さてこそ賊」と庭下駄を穿き庭を突っ切り追い逼ったが奇妙にも賊は逃げようともしない。
「藪殿か。私《わし》じゃ私じゃ」
 ヌッと顔を突き出した。
「おおあなたは貧乏神様で?」紋太郎はすっかり胆を潰した。
「さようさようその貧乏神じゃ。……何んとその後はいかがじゃな?」
「はい、近頃はお陰をもって……」
「ふむふむ、景気がよいそうな。それは何より重畳《ちょうじょう》重畳。みんな私のお陰じゃぞよ。なんとそうではあるまいかな。数代つづいて巣食っていた貧乏神が出て行ったからじゃ」
「仰せの通りにござります」
「で、私には恩がある。な、そうではあるまいかな?」
「はいはい、ご恩がございますとも」
「では、返して貰おうかな?」
「しかし、返せとおっしゃられても……」
「何んでもござらぬ。隠匿《かくま》ってくだされ」
「はて隠匿《かくま》うとおっしゃいますのは? ああ解りました。では[#「では」に傍点]あなた様は、また当邸へおいでなさる気で?」
「うんにゃ、違う! そうではござらぬ。私は隣家に住んでおるよ」
「専斎殿のお邸にな?」
「さようさようヘボ[#「ヘボ」に傍点]医者のな」
「道理で近来専斎殿は不幸つづきでござります」


    隣家の誼みも今日限り

「みんなこの私のさせる業《わざ》じゃ」
「ははア、さようでござりましたかな」
「どうも彼奴は乱暴で困る」
「さして乱暴とも見えませぬが……」
「私を泥棒じゃと吐《ぬか》しおる」
「なるほど、それは不届き千万」
「今私は追われている」
「それはお困りでござりましょうな」
「で、どうぞ隠《かくま》ってくだされ」
「いと易いこと。どうぞこちらへ」
 ――で、紋太郎は先に立ち自分の部屋へはいって行った。
 おりから玄関に訪《おと》なう声。
「藪殿藪殿! 御意《ぎょい》得たい! 専斎でござる。隣家の専斎で」
「これはこれは専斎殿、その大声は何用でござるな?」
 悠々と紋太郎は玄関へ出た。
「賊でござる! 賊がはいってござる!」
 医師専斎は血相を変え、弟子や家の者を背後《うしろ》に従え玄関先で怒鳴るのであった。
「拙者の邸へ賊がはいった? それはそれは一大事。ようこそお知らせくだされた。はてさて何を盗んだことやら」
「そうではござらぬ! そうではござらぬ!」
 専斎はいよいよ狼狽し、
「賊のはいったは愚老の邸。盗んだものは六歌仙の軸……」
「アッハハハ」とそれを聞くと紋太郎はにわかに哄笑した。「専斎殿、年甲斐もない、何をキョトキョト周章《あわ》てなさる。貴殿の邸へはいった賊をここへ探しに参られたとて、何んで賊が出ましょうぞ」
「いや」と専斉は歯痒そうに、「賊はこちらへ逃げ込んだのでござるよ!」
「ほほう、どこから逃げ込みましたかな?」
「黒板塀を飛び越えてな。お庭先へ逃げ込みました」
「それは何かの間違いでござろう。……拙者今までその庭先で吹矢を削っておりましたが、決してさような賊の姿など藉《か》りにも見掛けは致しませぬ」
「そんな筈はない!」
 と威猛高に、専斎は怒声を高めたが、
「お気の毒ながらお邸内を我らにしばらくお貸しくだされ。一通り捜索致しとうござる!」
「黙らっせえ!」
 と紋太郎、いつもの柔和に引き換えて一句烈しく喝破した。「たとえ隣家の誼《よし》みはあろうとそれはそれこれはこれ、かりにも武士の邸内を家探ししようとは出過ぎた振る舞い! そもそも医師は長袖《ながそで》の身分、武士の作法を存ぜぬと思えば過言の罪は許しても進ぜる。早々ここを立ち去らばよし、尚とやかく申そうなら隣家の交際《つきあい》も今日限り、刀をもってお相手致す! 何とでござるな! ご返答なされ!」
 提《さ》げて出た刀に反《そり》を打たせ、グッと睨んだ眼付きには物凄じいものがあった。文は元より武道においても小野二郎右衛門の門下として小野派一刀流では免許ではないが上目録まで取った腕前、体に五分の隙もない。
 魂を奪われた専斎が家人を引き連れ呆々《ほうほう》の態《てい》で、自分の邸へ引き上げたのは、まさにもっともの事であるがその後ろ姿を見送ると、さすがに気の毒に思ったか、ニヤリ紋太郎は苦笑した。
「これは少々嚇しすぎたかな。いやいや時にはやった方がいい。陽明学の活法じゃ」
 ……で、クルリと身を飜《ひるがえ》し自分の部屋へはいって行った。
 貧乏神の姿が見えない。
「おやおやいつの間にか立ち去ったと見える」
 用人三右衛門がはいって来た。
「おお三右衛、聞くことがある。貧乏神はどこへ行かれたな?」
「へ? 何でございますかな?」
「ここにおられたお客様だ」
「ああそのお方でござりますか。さっきお帰りになられました。綺麗な小粋《こいき》な若いお方で」
「え? なんだって? 若い方だって?」
「はいさようでございますよ」


    秘密の端緒をようやく発見

「いいや違う。穢《きたな》い老人だ」
「何を旦那様おっしゃることやら。ええとそれからそのお方がこういうものを置いてゆかれました。旦那様へ上げろとおっしゃいましてね」
 云い云い三右衛門の取り出したのは美しい一枚の役者絵であった。すなわち蝶香楼国貞筆、勝頼に扮した坂東三津太郎……実にその人の似顔絵であった。
「貧乏神が役者絵をくれる。……どうも俺には解らない」
 紋太郎は不思議そうに呟いたが、まことにもっとものことである。

「お役付きにもなりましたし、お役料も上がりますし、せめて庭などお手入れなされたら」
 用人三右衛門の進めに従い、庭へ庭師を入れることにした。
 紋太郎|自《みずか》ら庭へ出てあれこれ[#「あれこれ」に傍点]と指図をするのであった。
 ちょうど昼飯の時分であったが、紋太郎は何気なく庭師に訊いた。
「ええ、そち達は商売がら山手辺のお邸へも時々仕事にはいるであろうな?」
「はい、それはもうはいりますとも」
 五十年輩の親方が窮屈そうにいったものである。
「つかぬ[#「つかぬ」に傍点]事を訊くようだが、百畳敷というような大きな座敷を普請したのを今頃《このごろ》どこかで見掛けなかったかな?」
「百畳敷? 途方もねえ」親方はさもさも驚いたように、「おいお前達心当りはないかな? あったら旦那様に申し上げるがいい」
 二人の弟子を見返った。
「へえ」といって若い弟子はちょっと顔を見合わせたが、
「実は一軒ございますので」
 長吉というのがやがていった。
「おおあるか? どこにあるな?」
「へえ、本郷にございます」
「うむ、本郷か、何んという家だな?」
「へい、写山楼と申します」
「写山楼? ふうむ、写山楼?」紋太郎はしばらく考えていたがにわかにポンと膝を打った。
「聞いた名だと思ったが写山楼なら知っている」
「へえ、旦那様はご存知で?」
「文晁《ぶんちょう》先生のお邸であろう?」
「へえへえ、さようでござりますよ」
「※[#「睫」の「目」に代えて「虫」、80−14]叟無二《しょうそうむに》、画学斎、いろいろの雅号を持っておられるが、画房は写山楼と名付けられた筈だ。……ふうむ、さようか、写山楼で、さような大普請をなされたかな。……えっと、ところで、その写山楼に、痩せた気味の悪い老人が一人住んではいないかな?」
「さあそいつは解らねえ。何しろあそこのお邸へは、種々雑多な人間がのべつ[#「のべつ」に傍点]にお出入りするのでね」――職人だけに物のいい方が、飾り気がなくぞんざい[#「ぞんざい」に傍点]である。
「おお、そうであろうそうであろう。これは聞く方が悪かった。……文晁先生は当代の巨匠、先生の一|顧《こ》を受けようと、あらゆる階級の人間が伺向するということだ」
「へえへえ旦那のおっしゃる通りいろいろの人が参詣します。武士《りゃんこ》も行くし商人《あきんど》も行くし、茶屋の女将《おかみ》や力士《すもうとり》や俳優《やくしゃ》なんかも参りますよ。ええとそれからヤットーの先生。……」
「何だそれは? ヤットーとは?」
「剣術使いでございますよ」
「剣術使いがヤットーか、なるほどこれは面白いな」
「ヤットー、ヤットー、お面お胴。こういって撲りっこをしますからね」
「それがすなわち剣術の稽古だ」
「それじゃ旦那もおやりですかね?」
「俺もやる。なかな
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