《ほりもの》がほってある。
「やっぱりそうだ。小間使いのお菊!」
 呻くがように紋太郎は云う。と、女は眼を辷らせ紋太郎の顔を流瞥《りゅうべつ》したが、別に何んともいわなかった。とはいえどうやら微笑したらしい。しかしそれも一瞬の間で二人はズンズン行き過ぎた。そうして今は雀色に暮れた夕霧の中へ消え込んでしまった。
「重ね重ね不思議のことじゃ。貧乏神に小間使いのお菊! 腕に桜の刺青があった。専斎殿の言葉通りじゃ。しかし美しいあのお菊がよもや六歌仙など盗みはすまい」
 やがて紋太郎は立ち上がった。
「熊谷まではまだ遠い。上尾、桶川、鴻ノ巣と。三つ宿場を越さなければならない。どれ、そろそろ出かけようか」
 腰を延ばしてハッとした。喜撰法師の軸がない! 桐の箱へ納め布呂敷で包み膝の上へ確かに置いた筈の、その喜撰がないのであった。
「ううむ、やられた! おのれお菊!」

「おお旦那様、もうお帰りで。これはお早うござりました」
 用人の三右衛門はいそいそとして若い主人を迎えるのであった。
「今帰ったぞ」と紋太郎は機嫌よく邸の玄関を上がった。手に吹矢筒《ふきやづつ》を持っている。部屋へ通るとその後から三
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